311は素数なのだそうだ。
7年前の3月9日は水曜日で、ぼくは仙台にいた。
仙台の海沿いにお客さんがあって、新しいプロジェクトのキックオフミーティングのために、出張していて、一足先に最寄り駅の多賀城でご飯を食べていた時、大きな地震があったのを覚えている。
その二日後の午前中、ぼくは市原市のお客さんのところにいた。
午後は会社に戻って会議だった。
そこでぼくはあの時を迎えた。
水曜日にぼくがいた場所は津波に呑まれた場所で、金曜日の午前中にいた場所は
タンクの爆発事故があった場所だ。
いくつもの爆発があって、窓際でその様子を見ていたら、爆風が飛んできた。
あの時の熱波をよく覚えている。
被災したお客さんは、どちらもぼくのメインの得意先で、どちらもしばらく稼働しなかったから、ぼくはしばらく仕事(実務という意味)がなくなった。
土曜日は花粉症の薬をもらいに耳鼻科に行って、日曜日は楽しみにしていた劇を見に行った。
月曜日は、職場も混乱して、でもぼくはお客さんと連絡も取れなくなったので仕事場の周りを営業車でうろうろして、やることもなかったので、その辺の公園でひたすら携帯でネットを見ていた。
一週間くらい経って、仙台のお客さんから連絡があって、でも会社の仕事とはちょっと分野が違ったので、その時は別の企業を紹介したにとどまった。
市原のお客さんはずっと動かないまま。
半年くらいたって、仙台のお客さんの再稼働のために準備。
仕事は戻った。
あの日の当日、月曜日からぼくの仕事はどうなるんだろう、としか考えてなかった。
月曜日以降、ぼくはほぼなくなったこともあって、考える時間がいっぱいあった。
五月の連休明けからその年は毎月被災地に行った。
仙台のお客さんも年明けには再稼働して、その後は前のように月に一度仙台を訪れ、仕事の合間に海岸沿いを車で走った。
あの日、何かが変わったことは確かだ。
書いていて思い出したけど、その年はひたすら自分がいかに無力なのかを思い知らされた。
今はぼくが力になれることなんかない、でも、数年後、見た目が回復してきた後、なにか力になれるように準備をしていかねばならない、なんて思った。
そうだった、あの時のぼくはそんなことを思っていて、
そのために具体的に何ができるのか、7年経った今のぼくはそれを考えている。