「穀官」

 

Phase.1『邂逅』

 

「…以上が手順だ」

 ハッとして隣を見た私に構わず、今日から上司になった冬島・ダニエル・隼人が、無言でペンシル型の記憶改竄装置を発動させる。突然何の変哲もないラーメン屋「春心亭」の店内が一瞬で真っ白になった。

 光の合間を縫って飛んで来る何かを餃子が盛られた皿で弾き落とす。レンゲだ。見渡すとサングラスをかけた従業員に取り囲込まれている。おかしい。記憶除去装置は光を遮断すれば効果はないことを知っていたのか、そもそも襲撃を予測していたのか。しかしダニエルはそんなことを気にすることもなく従業員たちを次々と手際よく叩きのめしていく。

 ぼけっとそれを眺めていると、私の前方に人影が現れた。樋口春臣、春心亭の店主。細身ながらも日本刀のようにしなやかでシャープな立ち姿はラーメン屋の店主には似合わない。私は警戒しながら構えを取る。一気に距離を詰めて、顎に放った掌底がやけに綺麗に決まって樋口は脂でべとついた床に倒れ伏した。ダニエルの方を見ると、他の従業員をのした後だった。

 仕上げだ、とつぶやいてダニエルが懐からNK、「ナチュラル・キラー」と呼ばれる天然素材破砕器を取り出し、積んである小麦粉の袋、ほうれん草の束、煮干しなどを「処分」する。

「小麦粉がダメですか…」

「ダメだ。このワカメも、もやしも。卵もだ」

「AC素材との違いがわからないんですが」

「どう違うかは問題ではない。ACであるかどうか、それだけだ」

 はあ、と生返事を返す。残ったのは、床に伏した春心亭の従業員と客、それからAC由来

の素材だけだ。

「引きあげるぞ」

 声を掛けられて、またハッとする。それに呼応するように、私の背後から、ガタン、と大きな音がした。とっさに後ろを向いて、凍りついた。

「あき、ほ?」

 その声が聞こえたからかどうかはわからないけれど、彼女は倒れた椅子を踏み越えて脱兎のごとく店の外に飛び出した。

「奥村、何をしている。追え!」

「え、あっ!」

 ダニエルの声に弾かれて、店の外に出る。お昼時のごった返した商店街に、彼女の姿はどこにもなかった。

「減点だな、奥村監視官」

 いつの間にか後ろに立っていたダニエルの責めるような言い方に、私は、すみません、と小さく呻いて奥歯を噛んだ。

 

 AC=エンジェル・クロップ。2世紀ほど前にアマゾンの奥地で発見された、必要な栄養素をすべて含み、遺伝組み替えで他生物の形質導入も容易、極めつけに低コストで大量に育成することができるという夢のような穀物は、食糧不足という当時の世界規模の難問をいとも容易く解決した。

 増加した人口分の食料を賄えるようになった「発展途上国」は、急速に発展、「先進国」との立場が逆転した。ここ日本も例外ではなく、 150年あまり前から発展が止まり、様

相がほとんど変わっていないそうだ。ACは経済だけではなく、食材という概念を変換させた。ACから個々の栄養素を抽出し、素材化することが可能となってからは全ての天然素材が不要になった。おまけにACの生産・管理を一手に担うグローバル企業AC社は、自社の利益を最大化するために天然素材の使用を規制。違反した者は、秘密裏にとはいえ「処分」の対象になる。違反者だけではなく、それに関わった者も。

「奥村夏実監視官。目撃者を逃がしたペナルティとしてお前に任務を課す。ラーメン屋から逃亡した人物を特定、本件を口外しないよう監視しろ」

 天然素材及びそれを扱う者を監視・処分する監視官という立場として、小学校時代を過ごしたこの街にやってきた私の最初の任務は、かつての友人の監視だった。

 

Phase.2『疑念』

 

 追われている。何故かはわからない。ただ私は何かを知ってしまったらしい、知ってはいけない何か。どこまで逃げても、執拗に追いかけてくる。湖にかかる橋の上で、私は二つの選択肢を迫られた。「処分」を受けるか、追い詰める立場として生きるか。私を追い詰めた誰かの顔が、ひどく怯えた表情に変わった。秋穂だった。私は、彼女に銃のようなものを突き付けている自分自身にハッとなった。

『ウインターからサマー、様子はどうだ?』

 イヤホンから届くダニエルの声で我に返る。

「…異常ありません」

 呟くように返して、汗が噴き出した額を拭う。暑さでおかしくなって白昼夢でも見ていたのか。私は気を取り直して、秋穂の家に双眼鏡を向けた。

 

 監視対象者の東雲秋穂を見つけるのは簡単だった。彼女の両親が経営する「東雲食堂」は、20年近く前と変わぬ様相で建っていた。集音マイクから漏れ出る会話にAC社に関わるものは一向に出てこない。昔ながらの食堂で飛び交う、いつの時代にも変わらぬ世間話だけだ。聞いていると、よく遊びに行っていた頃を思い出す。秋穂の父が作ってくれた焼きそばも。対して向かいのアパートにいる私はどうだ。ポケットデバイスに呼び出した、秋穂と一緒に写っている小学生の自分は、目つきからして今の自分とは全く違う。多分ラーメン屋で会った時、秋穂は私に気づかなかったはずだ。

 照りつける夏の陽射しがキツい。紫外線遮断フィルターとポータブルのエアコンをフル稼働させても、この時期に長時間屋外にいるのは、少々骨だ。私はすっかり温くなったイチゴ牛乳の最後の一口を飲み干した。

 

 考えてみればおかしな話だ。イチゴ牛乳、という名前はついているものの、この世界に出回っている食品の原料は、元の素材の遺伝子だけをACに組み込んで生産される作りものだ。「本物のイチゴも牛乳も」使われていないし、そもそも私はそのどちらも口にしたことはない。

 本物の素材は、どんな味がするんだろう。そんな邪念を抱いた自分に驚いて、頭を振る。いけない、私はそれを監視する立場なのに。新しい飲み物を調達しようと一歩踏み出した時、集音マイクが拾った声にアプリケーションが反応した。ディスプレイに新たな声の主が表示される。「樋口春臣」。対応しているのは秋穂の母だ。その会話には耳を疑った。

『煮干し、いいのがたくさん入ったの。在庫が切れたって聞いてたから、樋口さんところには多めに回すわね』。

 いつもすみません、そう言い残して樋口の声が抜けた。

 呆然と眺めながらも、秋穂の家から、樋口の店へ天然素材が融通されていることはわかった。まさか、秋穂の家もAC社の規定に? 考えていると、突然背中に細長い何かが押し付けられた。肩越しに顔を回すと、樋口が至近距離に立っている。

『奥村、どうかしたか?』

 ダニエルからの通信が入る。

「…いえ。ちょっと飲み物を買いに行くので、外します」

 言って通信機を切る。

「体術だけじゃなくて、とっさの判断もなかなかだな」

 そう言って、樋口が一歩下がった。右手に持っているのは、ガスライターだった。

「ただ、あまり真面目に考えすぎてると、アンタも損をするぜ」

 樋口が何かをこちらに放り投げた。とっさに受け取ると、それは冷えた烏龍茶だった。「安心しな、何も変なものは入ってない」

 私は警戒を解かないまま、じっと樋口に睨みつけた。彼はそれを意に介するでもなく言葉を繋げる。

「あのな」

「なん、ですか?」

「汗で化粧が崩れて、パンダの化物みたいになってるぞ」

「は?」

「ここを出る時は気をつけろよ。怪しい奴だと思われるからな」

「ちょ、あ、え…」

 わたわたしている私を一笑して、樋口をアパートの階段を降りていった。

 

Phase.3『圧力』

 

「樋口から接触を受けました」

 ダニエルの元に戻り、直接先ほどの出来事を報告する。だが、なぜか彼は怪訝な表情で私を見るだけだ。

「どうかしましたか?」

「…誰だお前は?」

「はい? こんな時に何言って…」

「ああ、奥村か。すっぴんだからわからなかった」

「なっ!!」

 突沸しそうになる頭をどうにか落ち着けて、疑問を投げてやる。

「何者なんですか、あの人は? ただのラーメン屋だとは思えません」

 ダニエルは座ったまま特に何かを考えるでもなく私に言葉を返す。

「そっちのことは俺が調べる。監視対象のことは何かわかったか?」

 私は、開きかけた口を噤む。監視対象に天然素材との関わりがあるようです、その台詞を呑み込んだ。

「特にありません。ごく普通の食堂です」

「そうか。言っていなかったかもしれんが、お前に渡した通信機器からのデータは、

全てネットワークに繋がっているのだが」

 ダニエルからの冷たい目線に、思わず目を反らす。

「減点二つ目だな、奥村監視官。お前に東雲食堂の粛清を命ずる」

「…嫌です」

「小学校時代の友人を襲うのは気が引けるか?」

「なっ、なんで知って…!」

「AC社の情報収集力を甘く見るなよ。どんな理由があるにせよ、仕事に私情を挟むのは感心せんな」

「昔ながらの食べ物の何が悪いんですか!」

「AC以外の素材を扱う者は規定により処分する。それが監視官の仕事だ」

「けどっ」

「それから、お前は監視官という役を負うことで、自分自身の処分を免れている。忘れるな」

「あっ…」

 AC社に身売りをした。それを持ち出されると、返す言葉がない。

「まずは我々の粛清を目撃した東雲秋穂を抹消しろ」。

 

 秋穂に連絡を取ると、彼女は私を覚えていた。仕事で街に来ているから久しぶりに会えないか。そう言うと彼女は疑いもせず、こちらが指定した公園に出向いてくれた。丸い池にかかった橋の上。よく秋穂と遊んだ場所だった。印象変わったね。私と向き合った彼女は、特に不信感を見せることなくそう言った。

「春心亭で見た時は気づかなかった」

「それは化粧がどうとか、そういうことじゃないわよね」

「?」

「ごめん、なんでもない。気にしないで。それよりも、しっかり覚えてるのよね。あの時のことは」

 問うと、秋穂がうつむきがちに答える。

「噂には聞いていたけど、まさか現場に鉢合わせるなんて思ってなかった。樋口さんから口止めされてたから、誰にも言わなかったけど」

「その口ぶりだと、AC社がどんなことやってるかは知っているみたいね」

 私は記憶改竄装置を取り出す。AC社の裏側を知った人間は「抹消」の対象になる。

「抹消」とは、絶対に情報を漏らさないよう思考を矯正すること、もしくは記憶の改竄

だ。思考を矯正すればそれまでの人格は破綻してしまうし、時間が経ってから記憶を変えるのは、脳に障害をもたらす。だから、私は自分を守るために監視官になった。もし私に監視官の適性がなかったら、今頃どうなっていたのか。ただ今はそれを考える時ではない。

「ごめんなさい。できればこんなことしたくないけど、あなたを救う方法を思いつけなかった」

 装置を秋穂に向ける。彼女は覚悟したように私を見つめ返す。

「うちもAC社の規定に違反してるからね、いつかこんなことがあるかもって思っていたけど」

「物分かりがよくて助かるわ」

「けど、一つ聞かせて。一緒にいた人もAC社の人? あの人樋口さんのお店によくいるし、うちにも来るけど」

 

Phase.4『能動』

 

「え?」

 秋穂の言葉に頭がフリーズした。

「天然素材のことにやたらと詳しいから、どんな仕事なんだろうって思ってたけど。AC社の人だとは思わなかった」

「ちょっと待って。それ、どういう…」

 言いかけて、はたと思い当たる。そういえば樋口の店に行った時、ダニエルは違反している食材をいちいち説明していた。会社のアプリケーションにはAC素材とそうでないものを見分ける機能があるけれど、その素材が何なのかはわからない。監視官はACとの区別がつ

けばいいだけのはずだ。だとすると…。

「秋穂、何も聞かずに今から私の言うことを復唱して。『私は7月14日に春心亭で起きたことを一切公言しないことを誓います』」

「え、あ、うん。私は…」

 戸惑いながらも復唱する秋穂の言葉を録音すると、私はすぐさま春心亭へ向かった。

 

「説明してもらえますか?」

 春心亭の大盛野菜タンメンをすすり上げるダニエルに、可能な限り怒気を注ぎ込んで聞く。

「何をだ」

「トボケないで下さい! その食事には天然素材が含まれていますよね。それを監視・処分するのが我々の仕事じゃないんですか」

「だからこそ東雲食堂を監視し、この店を粛清した」

「じゃあ、どうして違反している店の物を食べているんです?」

「…お前はACをどう思う?」

「何ですかいきなり? 人類の繁栄に関わる有用な…」

「そんなことはどうでもいい。好きか、嫌いか?」

「そういう風に捉えたことはありません」

「俺はAC由来の素材が死ぬほど嫌いだ。あんなクソ不味い代物、可能な限り口にしたくない」

「何言って…」

「そもそも監視官が天然素材を口にしてはいけないという社内規定はない」

「それって会社に対する反逆じゃないですか!」

「知るか。俺は監視官という仕事に従事しているだけだ。会社から人の好き嫌いをどうこうされる言われはない」

「ふざけないで! 私の苦悩はなんだったわけ」

「俺はお前に仕事をしろと言ったが、苦悩しろとは言ってない。だいたい、お前だって東雲秋穂の処分に手を抜いたろう」

「ちゃんと彼女の思考を矯正しました。文句ありますか」

 殺意を込めた視線をダニエルに向けたまま突っ立っていると、笑い声とともに私の肩へ誰かの手がポンと置かれた。

「だから言ったろ、隼人。こいつはお前と同じだって」

「こんな瓶底眼鏡と一緒にするな。せっかくの天然素材が不味くなる」

「瓶底眼鏡なんてかけてません!」

「クソ真面目という意味だ」

「まともに解説するな!」

「はは。いいコンビだな」

 樋口が能天気に笑いかける。

「グルだったんですね、二人とも。冬島さん、職権乱用を会社に報告します」

「会社の信用度は俺の方が圧倒的に上だ。軽率な行動は慎め」

「卑怯者! マジで首絞めてやる!」

「やってみろ石頭」

「ACを食って死ね、冷血漢」

 樋口が笑いながら私の前にダニエルが食べているのと同じ大盛野菜タンメンを置いた。

「まあ仲良くしようや。長い付き合いになるんだろうからな」

 私は頭を掻き毟りたい衝動をどうにか抑え、ダニエルの隣にどかりと座り込む。振り上げた拳をぶつけんばかりに丼を引っ掴むと苛立ちに任せて麺をかき込んだ。合成された旨味ではない、煮干しから出汁を取ったスープは、ACを使ったものよりもずっと深く胃の中にしみ込んだ。