Squall drop

握りこぶしくらいのしずく型をしたガラスの中で、白い塊が西の方へ這いあがるようにうごめいている。ガラスの中で、結晶がこんな動きをするということは、嵐が近づいているということだ。

空を見上げると、太陽がだいぶ上がっている。綿あめを平べったくしたような雲のすき間から青い空がのぞいて、そよ風が流れている。

(嵐どころか、雨もまだ降りそうにはないと思うのだが……)

あなたには見えないものを表しているのよ、きっと。ペンダントになったガラス球に疑問をぶつけると、ガラス球からそんな声が聞こえた気がした。

「大高三尉」

 呼ばれて、はっと我に返る。

蛭田が膝まずいている先に、シカが寝そべっている。体長は一メートルくらい、ただのシカだ。身体全体が水晶のようになっている以外は。

「初めてです。こんなに完全な『遺晶』を見たのは」

 蛭田が手を伸ばして、透明になった角にそっと触れた。その瞬間、結晶のシカは砂山のようにザーッっと崩れた。崩晶。土砂降りの音が耳の中に流れてきて、思わずしまいこんだガラスを服の上から手のひらで押さえてしまう。

「わっ、と、すんません!」

 蛭田が慌てて手をひっこめた。

「ああ、いや……気にするな。雨が降ったり、ちょっと強い風が吹くだけで崩れるから、時間の問題だ」

「こんなにもろいんですねえ」

 『晶化症』にかかった個体が死ぬとほんのわずかな、風が吹いたり、雨が降ったりするくらいの圧力が加わるだけで、一瞬にして全体が崩れ落ちる。生きている間は、どんなに力を掛けても割れたりはしないのに。

 蛭田が遺晶をガラス瓶に入れている脇で、私は首元からガラス球を取り出して、右手で握りながら、じっと目を閉じる。

「塩とか砂糖みたいですよね」

「見た目はそうかもしれないけれど、舐めても味はしないし、消化もしない。遺晶を食えるのはウカルクパくらいだ」

「動物がこんなんなっちゃうなんて。不思議ですよねえ、晶化症って」

 半分口を開けて、蛭田は感心したように瓶に詰まった結晶をいろんな方向から眺める。

「……君は怖くないのか?」

 問いかけると、蛭田がきょとんとした顔でこちらに振り返る。

「怖い? 何がです?」

「何が、って。人間も晶化症に罹患するんだ」

「知ってますよ。でも、晶化症になった個体に触ったって感染するわけじゃないって大高三尉が言ってたじゃないですか」

「まあ、そうなんだが……」

 と、私の言葉の途中にザーッと砂嵐が割り込んできた。顔をしかめる。

『こちら、バッカス。メガネチーム、応答しろ』

 イヤホンから無遠慮に流れるしゃがれ声に向かって、聞こえよがしに大きく嘆息する。複数形にならないと眼鏡じゃない、という文句を飲み下して、無線機に声を送る。

「こちら、チーム・グラス」

『メガネ一、お前さんに来客だ』

「私に?」

 何だろう。本業の方で私を訪ねてくるものなどいるはずもないから、心当たりがあるとすれば、副業のほうだ。もしかしたら、以前出した論文にいちゃもんでもつけに来たのだろうか。だが、もしそうならばこっちが呼び出されるはずで、あちらから出向いてくることはない。

『話はこっちでする。いいから早く戻って来い』

「ですが、まだパトロールが終わって……」

『我が隊の任務を述べろ』

「は……?」

 突然の命令に、先ほど蛭田が見せたようなきょとんとした顔になる。

『我が隊の任務を述べろ』

 無線からもう一度同じ口調で同じ言葉が流れてくるのを聞きながら、傍らにそびえる、灰色の壁を見上げる。

いまいち訳が分からないまま、答える。

「『中央防壁警備隊』の任務は、中央防壁の警備、ならびに中央境界線の防衛です」

『二つ教えよう。一つ目、わざわざこんな山奥の分厚い壁を壊しに来るもの好きはいない。二つ目、壁ができてから約一〇〇年、壁の東側から入ってくるどころか入ろうとした人間は一人もいない。少なくとも今日明日もそれは変わらない。以上だ』

 ザっ、と短い砂嵐が無線の通信を断ち切った。つながっていない通信機に可能な限り大きなため息を吐いてやる。それを言うなら、我々が日々従事しているこの仕事は、いらないということになる。

「厄介ごとですか?」

蛭田が他人事のようににやにやして聞いてきた。

「野暮用のようだ。サンプルは預かるから、後を頼む」

 ひらひらと手を振る蛭田を後に、ライフルを担ぎなおしてゆっくりと戻る。

 もう一度、晴れ空を見上げて、ペンダントのガラス球を握りしめる。

「この仕事がなくなったら、どうやって白うさぎを探せばいいんだろうな」

 何にも阻まれることなく、ぽとりと言葉が地に落ちた。

 

晶化症は、八年前、二一〇三年に確認された疾患だ。罹患すると、身体がガラスのようになっていく。まず、体内の一部がガラス化し、徐々に全身に広がる。晶化症候群、とも呼ばれ、発症すると短期間で老衰が進行するような症状になり、最終的には死に至る。体表にガラス化が見られる程度に症状が進行した後は、一年以内に死に至ることが多い。

今のところ、哺乳類にのみに罹患が認められている。もちろん、人間も含まれるが、発症率は一〇〇万人に一人程度と多くはない。主には犬や狐、タヌキや鹿、猪などに罹患が見られ、熊のような大型の動物や、ネズミなどの小型動物では、あまり確認されていない。

原因は不明。そして何より治癒方法も不明。厄介極まりない病気ではあるが、いくつか利点がないわけではない。

晶化した箇所はどんな衝撃を加えても、割れたりすることはおろか、傷一つ付かない。例えば、晶化症の患者は毒物を注入された、高濃度の放射線に曝されたりしても、身体に影響がでることはない。事故などで晶化していない場所に大きな衝撃が加わったりする場合は別だが、基本的に晶化症に罹った個体は、晶化症以外の要因で死ぬことはなくなる。

 そんな奇妙な病気が、日本で発見されている。それも、東に行くほど発見される数が多い。私は三年前から最も「東側」に近いこの場所で、警備隊に所属する傍ら、晶化症を調査している。

 

 帰投すると、占部典人、通称バッカス三佐が、焼酎の瓶を隠すこともなく乗せたデスクにがっちりとした足を投げ出して、胡乱げな視線を天井に向けていた。戦闘服を着た見慣れない女が立っている。

「グラス・ワン、大高、戻りました」

 敬礼をしてやると、バッカス三佐がこちらを顎で指してきた。

「加戸倉一尉、こいつが大高三尉だ」

 私の紹介を受けると、女がこちらに進み出て、握手を求めてきた。

「特殊情報部の加戸倉よ、よろしく」

手を握る。硬い手だ、と思う。どうしてだか温度を感じなかった。歳は、三〇前後くらい。細身ではあるが、小柄ではない。短槍、という言葉が思い浮かぶ。

初めて会う、はずだ。この女が、私宛の来客であるらしい。

「大高、景蔵三尉。中央防壁警備隊第一六分隊所属、ならびに……」

「衛生調査官でしょう。知っているわ」

「……どこかでお会いしたことが?」

 念のため、聞いてみる。

「いえ、会うのは初めて。それより、貴方に頼みがあるの」

特殊情報部と言えば、名前の通り、何をやっているのかよくわからないし、知りたくもないもことをやっているに違いない部隊だ。しかも単独。決して喜ばしい申し入れではないに違いない。

「『東側』に行きたいの、案内してほしい」

ちら、と占部に視線を送ると、我関せずといった具合に外を見ている。先ほどは晴れ間が見えていたのに、いつの間にか灰色の雲が厚くなっている。

「『東側』への立ち入りは禁止されています」

「安心して。許可は取ってある」

 本当だろうか。いくら情報部とはいえ、『東側』への立ち入りはそれが誰であろうと禁じられている。公式に例はないが、それを犯せば罰せられることになっている。

「なぜ私に? 案内くらいなら誰でも……」

「何かをするときには、経験者に助力を求めるものでしょう」

 経験者、つまり、東側に行ったことがある者、ということだろう。

「……嫌だと言ったら?」

「これまでの隠れた罪が明るみに出て、罰を受ける可能性がある」

「……」

 脅しだ。『東側』へは「公式には」立ち入った者がいないだけで、実際は立ち入った者がいないわけではない。目の前の人物はその一人が私だということを知っているのだろう。

「案内してもらうだけよ。それ以上は求めないし、あなたに問題になるようなことにはしない」

「情報部からの要請、となれば、こちらとしても断る見解はない」

 我関せずからバッカスも加戸倉の要請を後押しする側に回る。心の中で思い切り舌打ちが出た。

「……出発は?」

「今すぐ行きたい。時間がないの」

 こちらにじっと視線をやって、静かに加倉井は言う。ただ、その落ち着いた表情とは裏腹に、どうしてだが胸をひねり上げられてせっぱ詰まっている色を感じる。その目線の色に、ため息とともに言葉が出る。

「……分かりました」

 加戸倉の口からほっと息が漏れたのがわかる。

「ありがとう、助かるわ。じゃあ悪いけれど、さっそくお願い」

 バックパックを担ぐと、加戸倉はささっと部屋から出て行く。

「……ずいぶん簡単に許可を出してくれますね」

 バッカスに向かって言うが、どこ吹く風だ。

「特殊情報部なら何だって許可が下りるだろう」

「向こうさんの話じゃなくて、私が同行するってことです。私は実戦の経験もないし、向こうで何かあったらどうするんです?」

 ねめつけても風が吹いた柳ほどにも変わらない。

「うちの隊では実戦の経験がある人間の方が少ないから、それは断る口実にはならんよ。嫌なら断ればよかっただろうに」

「脅されましたからね」

「今更明るみに出たところで大した問題にはならん」

「三途の川を渡る、なんてことになったどうするんです? 長城までならまだしも、それより向こうは……」

「それができるなら、お前さんはとっくに向こうへ行っているだろう」

「……」

「さっさと終わらせて、とっとと帰ってこい。お前さんには蛭田のお守りをしてもらわにゃならんのだ」

 言うと、バッカスは学校に行きたがらない子供を無理やり行かせるように、しっしと手を振った。

 

「三途の川って、何なの?」

 後ろを歩く加戸倉が声を掛けてくる。首だけ少し振り向いてやる。

「この辺りでは、『東側』との境界線を三途の川と呼んでいます。向こうは人がいない、人の住めない場所だから」

「あの世みたいなものってことね。だとすると、その川をわざわざ越えようとする私は、あの世に行こうとする半死人みたいなものなのかしらね」

「……さあ」

木々の先に、空を覆った灰色の雲と似たような色がちらちらと見えるようになる。壁の前に到着すると、加戸倉が半分口を開けて見上げていた。高さは地上から三メートル、厚さはここからは見えないが五メートルはあるそうだ。右を見ても、左を見ても、その灰色はずっと続いている。

「見るのは初めてだけど、本当にあるのね」

初めて目にしたとき、私自身も同じ感想をいだいた。正式には、新汚染拡大防護壁、というらしいが、実際にその呼び名を聞いたことはない。建造されたのは約百年前。二一世紀初頭に関東、東北地方沿岸で起こった大地震と津波で、当時稼働していた原子力発電所で相次いで過酷事故を引き起こした。その結果、本州は関東以北が放射線で汚染され、その拡大を防止するために建造された、らしい。らしい、というのは、百年も前のことで、本当のところはよくわからないからだ。

「よくこんなものを作ったものだわ」

 多くの人がそう思う。ところどころ山肌を利用しているものの、国土を縦断する壁を建設するなど、どうにかしていると思う反面、よくこんなものを造れたものだと感心する。当時は、大地震に見舞われた直後とは言え、世界各国から輸入した資材や機器があって、それを活用する技術も豊富にあったのだろう。今のこの国には、こんなものを造るほどの資源も技術力も存在しない。

「この向こう側はあの世になるのね」

 加戸倉のつぶやきに、かぶりを振って応える。

「公的には長城を越えれば『東側』になりますが、まだ現世ですよ。三途の川は旧境界を指しますからね」

 実際、長城を越えても世界が大きく変わるわけではない。こちら側にも野生動物はわんさといるし、放射線量も変わりはしない。

「『東側』に行く目的は何です?」

 世間話をするように、聞いてみる。

「……調査よ。いろいろと」

 一瞬の間があって、とても大雑把な答えが返ってくる。

「『東側』がどうなっているか、とか、ですかね。でも、情報部だったら、無人機を飛ばしたりとか、海外の衛星画像データを入手したりとか、わざわざ生身の人間を行かせなくても十分に調査はできるように思えますが」

「……実際に人が行かなきゃ、わからないこともある」

「それにしてはあまりに軽装ですね」

旧境界から山を越えていけば、実際に人間に支障をきたす量の放射線で汚染された区域に入る。放射線防護をしていない生身の人間が行くところではない。

「宇宙に行きたいと思ったことはある?」

「宇宙?」

 いきなり聞かれて、少し戸惑う。

「宇宙空間には重力もないし、酸素もない。温度は昼と夜で一〇〇度は変化する。普通の人間は生きてはいけない。それでも宇宙に行きたいと言う人はいるでしょう。それと同じ」

「生身で宇宙に行く人はいない」

「どうかしら。宇宙に行ければ地球に帰ってこれなくてもいいっていう人を、あたしは何人か知っている」

「……自殺願望でも? 私は死に場所までの案内人ですか?」

「ただ死にたいなら、こんな辺境まで来たりする必要はないでしょう。『東側』に行くには、まずこの長城を越えなきゃいけないんでしょう?」

 加戸倉が視線をこちらから視線を外して、壁を見上げる。余計なことをくっちゃべってないで、さっさと案内しろ、と催促がかかる。

「……了解」

 短く答えて、足を進める。

長城は、建てたはいいが、メンテナンスをする者も、補修する資材もないためあちこちひび割れている。おまけに六年前に起こった中部地区を震源とした大地震により、ところどころ崩落している。数は少ないが天井部にあがるための階段が設けられてもいる。その場所を把握してさえいれば登っていくことができないわけではない。

加戸倉の仰せ通り、こちらもさっさと頼まれごとを終わらせることに集中する。比較的登りやすいがれきに足をかけて、登っていく。ちらりと肩越しに視線をやると、加戸倉も難なく着いてくる。

 ほどなくして、崩落部のてっぺんに出る。見えるのは、山と、森と、灰色の空だけだが加戸倉がてっぺんの手前で、脇に吊るしてあるカービン銃を引き寄せてしゃがみこんだ。不思議に思いながらも、倣ってこちらもしゃがみ込む。加戸倉はじっと目を凝らして、壁の上から『東側』を見渡している。

 一通り警戒の目を走らせると、中腰に立ち上がり、ゆっくりと足を進める。

初めて踏み入れる『東側』に緊張しているのだろうか。壁の向こうとは言え、庭のような感覚の自分からは、それが滑稽に見える。

「熊ならそうそう人前に姿を現すことはないですよ」

 加戸倉の後ろを歩きながら言ってやる。

「熊なんかじゃないわ」

「それなら、放射線で変異した恐ろしい化け物でも?」

今でも放射線によって変異した動物がいるとかいないとか、そんなうわさ話を耳にすることはあるが、あくまで噂だ。だが、加戸倉は温度のない目でこちらをちらりと見る。

「あなた、こっちに来たのは初めてじゃないんでしょう?」

「少なくとも私は、こちら側で警戒しなけりゃならない何かに出会ったことはないですよ」

「それは幸運ね」

「……?」

加戸倉は警戒を解かないまま、立ち上がって森の中に目をこらす。なんとなしに、首元からガラス球を取り出す。底部から、白い小さな塊が成長するように大きくなっていく。あなたは何も知らないのよ。なぜか、そんな言葉が頭に浮かぶ。

「ずいぶんアナログなものを使っているのね」

 女の肉声に、我に返る。加戸倉が首元のガラス球を見ている。なんとなしに落ち着かなくなって、しまい込む。

「ストームグラスでしょう、それ?」

「……懐古趣味でしてね」

「天気が気になるなら、雨が降るのは夜になってから。深夜には、嵐がくるみたい」

 こめかみのあたりを軽く押さえて、あちこちに目線を動かしながら、加戸倉が言った。頭部にコンピュータを仕込んでいるようだ。

「さすが情報部は、機材がしっかりしている」

「かなりの旧式よ。通信は早くないし、バッテリーも食うから、詳細なものは……」

 加戸倉が言葉を止めた。さっそく探している何かに出会ってしまったのか。一応警戒しながら、加戸倉の視線を追うと、警戒するもの、ではないが、変わったものが見つかる。

 それは粘菌のように見える。ただ、重なった落ち葉の裏側にくっついている小さなものではない。長さは様々だが、足首くらいから、腰に届くくらいまで。黄色や赤、緑色や青と、さまざまな淡い光を放っている。そして、一番奇妙なのは、それがガラスのような硬質で透明の外観だ。こちらとしては見慣れたものだが、加戸倉は口を半開きにして、じっとそれを見ている。

「ウカルクパ。見るのは初めてですか?」

名前を教えてやると、加戸倉がいろいろな方向から眺めたり、そっと指で触れたりしている。ウカルクパが見られるのは、ほとんどが長城より東側だから、珍しいのだろう。

「かなり硬質ね……晶化症の患部に似ている」

 確かにそうだ。ウカルクパはどんなに力を加えても割れたりしないが、地面から引っこ抜くと粉々に砕けてしまう。これは、晶化した個体が崩晶するのに似ている。

「あまり触らない方がいいかもしれませんね。ウカルクパは晶化症の原因だと言われていますから」

 遺晶は風や雨でどんどん細かくなって、すぐ辺りに散ってしまうが、ウカルクパは遺晶のあったところに発生する傾向がある。個体が死ぬと、体内にいたウカルクパが体外に排出されるのではないか、晶化症の原因はこのウカルクパが個体に感染するからだ、というのが現状有力な説ではある。

「でも貴方はそれを否定している」

 その返答にこちらが口をつぐまされる。確かに、私自身はウカルクパが晶化症の原因だと思っていない。むしろ逆だ。ウカルクパは遺晶を養分とする。遺晶があるからこそウカルクパが発生するのだ、という説の論文を書いたことがある。とはいえ、晶化症の研究をしている者以外で、こんなマニアックな推測を知っている人間がいるのは驚きだ。

「ウカルクパに触れた時も、晶化症のようだと言ったな。晶化症に関わりが?」

 敬語が崩れるが、加戸倉は気にした感じもなく、こちらの疑問に答える。

「ちょっと予習していただけよ。『東側』では晶化症の発症が多いから」

「それにしても辺境の調査員が出した論文にまで目を通すのはずいぶんマニアックな予習だ」

「中央の研究所から出るものは想像だけの空論じみたものが多い。現地で実際に触れている人の意見の方が信頼に足る、と思っているだけよ」

「……白うさぎを探しているのか?」

「白うさぎ?」

 いぶかしげな視線が浮かぶ。

「いや、違うならいい」

 不意な質問に不審がられるが、足を進める。日は落ちていないものの、灰色の雲と重なり合った葉が、太陽からの光を壁のように遮っている。旧境界に着くころには暗くなっているくらいだろう。

 

 草木に覆われているが、ところどころ金網の柵が見える。長城は正式名称「新汚染拡大防止線」。新、となっているのは、旧、があるからで、それがこの場所だ。柵が破れている場所があって、腰に吊るした山刀で、蔓や小枝を払えば、旧境界を越える道ができる。

百年前、ここから一番近い原発事故現場は旧茨城県の東海地区だ。そこから半径二五〇キロが出入り禁止となり、その境界線が「旧汚染拡大防止線」。長城が築かれる前の、本来の『東側』との境界だ。ここから先、山の麓へ下っていくと、名実ともに放射線汚染区域となり、人が住める環境ではなくなってしまう。「あの世」と「現世」の境界線、まさに「三途の川」だ。長城の内側には何度も入ったことはあるが、これ以上先に行く気にはなれない。私の他にも幾人かがここまで来たことがあるらしいが、この川を渡ったという者は聞いたことがない。放射線汚染区域という先入観があるからか、それとも本当に「三途の川」なのか、踏み込ませない何か圧力のようなものを感じる。

「ねえ……あれは?」

 肝が据わっているのか、それとも、何も感じないのか、ただの橋を歩くようにして旧境界を越えた加戸倉が、ブッシュの下部に指をさしている。気後れはするが近くまで寄る。洞のように枝葉に覆われていないスペースがあって、白い結晶の山が見える。両手に余るくらいの大きさだ。

「晶化症になって息絶えた動物の残骸、遺晶だ。もともとどのくらいあったかは分からないが、たぶん大きさから考えて、タヌキかなんかじゃないか」

 晶化症に罹った個体は他の動物に捕食されることはなくなるので、息絶えた後は遺晶がそのまま残るケースが多い。

「遺晶……これが……」

 加戸倉が右手で左の腕を抱くように抑えながらしゃがみ込む。

 突如、どこからか視線を感じた。動物のものとは何か違う気がする。向けられているものに目線だけではないものが混じっている。

 加戸倉は何も気にせず、遺晶の山を覗き込んで、ゆっくりと手を伸ばす。彼女の指が山に届くその瞬間、空気が裂かれた。

加戸倉が反応する。パンチをガードするように腕を上げた直後、加戸倉が吹っ飛んだ。ようやく私自身の体も反応する。ブッシュの陰に転がり込む。

 狙撃だ。心臓が冷たく、しかし大きく鼓動する。

そんな馬鹿な。こんなところに人がいて、撃ってくるなんて。誰だ? まさか「黄泉の国の住人」なんてものがいるのか。頭の中からとめどなく思考が溢れてくる。過去に、地域の紛争に巻き込まれたときに、銃撃戦を間近にしたことはあるが、大多数の中の一つではなく、明確な意思を持って銃口を向けられたのは初めてだ。

 ライフルを手元に抱く。だが、どこから撃ってきたのかわからず、それをどこに向ければいいのかもわからない。だいいち、この場所に寝っ転がっていることは安全なのか。加戸倉はどうなった。

深く息を吸い込んで、意識のアンテナを広げて、息を殺す。かすかに、かさり、と葉がずれる音を拾った。瞬間、茂みから影が飛び出すのが見えた。もう一度空気が裂ける音が鳴るが、影は地面を駆ける。一秒、二秒。ぴたりと止まる。

「……」

 小さな、声のようなものを耳が拾った。その直後、くぐもった音が一つ。

辺りが、しんとする。私は心臓の音を覆うように、ライフルを握りしめたまま身を小さくしている。何をしていいのか、何をしてはいけないのか。

 突如、風が森を抜けて、土砂降りが落ちた。思わず、目をぎゅっと閉じて、ペンダントを服の上から抱くように押さえつける。その動作に自分でも驚いて、目を開ける。どこも濡れてはいない。きっきの音は水が落ちた音ではないことに気づいて立ち上がる。土砂降りの音がした方に向かう。加戸倉が、銃を地面に向けて構えたまま突っ立って、下を眺めている。

繁った草むらの中にあるのは、野戦服と、ボルトアクション式のライフル。服は誰かが寝そべった形になっていて、銃は右肩から左袖に添えられているように置いてある。顔や手があるはず場所には、白い結晶の塊が連なっている。

「白うさぎって、何?」

 遺晶を見下ろしながら、静かに加戸倉がつぶやいた。細かい結晶の塊になってしまった男は、こうなる直前にロシア語で言ったのだそうだ。「白うさぎはどこだ」と。

「晶化症が末期になると、夢やなんかで白いうさぎを見るようになるらしい。それを見た者は、白うさぎを探し求めるようになる、と聞いている」

「……そう」

「なんでロシア兵がこんなところに?」

「北海道からきたんでしょう。もうずいぶん前から北海道はロシア領だから、本州に渡るのは難しくない」

 加戸倉が長城を越えてから警戒していたのは、このためだったのだろうか。

「それにしても、東北地方を南下してきたのか? 生身の人間だったらそんな……」

 自分で言って、頭を振る。生身ではない。晶化症になった個体は、放射線に対して耐性ができる。海を渡って、東北地方を抜ければ、ここまで来れないわけではない。

そういえば、ロシアの方でも、晶化症のような症例があると聞いたことがある。特にウクライナ。その昔大きな原発事故があった地域で、だ。もしかしたら、彼もその症例の一人なのだろうか。

ストームグラスを取り出して、祈るように目を閉じる。

「あんたも晶化症なんだな」

 加戸倉が左の袖をまくり上げる。肘の辺りから肩の手前の部分が、わずかに残っている光を反射して、透明に輝いている。先ほどの銃弾もその部分で受けたのだろう。晶化した部分は、どんな衝撃を加えようと傷一つ付くことがない。

「晶化症に罹ったってわかったとき、どうしていいのか分からなくなって、軍に『東側』の調査を申し入れたの。こっちにくれば何かが分かるかもしれない、って思って……」

 加戸倉が東を向く。もしかしたら、加戸倉には白うさぎが見えていなくても、どこかで感じ取っているのかもしれない。

「まあ、いいわ。ところで、この状態はあなたも黄泉の国に渡ってしまったってことになるのかしら?」

 まくり上げた袖を戻して言うと、背後に位置する、草むらにまみれた鉄柵、旧境界を見る。

「いや、この辺りまでなら何度か来たことはある」

 握りしめたストームグラスに目をやる。

「そのストームグラスって、あなたの奥さんの?」

 妻を晶化症で亡くした調査員。それを知って、加戸倉は私のもとにやってきたのだろう。晶化症になった妻はある日突然姿を消した。白うさぎを探しに行く、というメモと、彼女がいつもつけていたストームグラスのペンダントを残して。それから私は、長城警備隊に志願をした。

「東側に行くのは、奥さんを探しに?」

 晶化症に罹ったら、長くとも二年は持たない。妻が消えてからはもう五年が経つ。こんなところにいるわけがないとは分かっているが、それでも、『東側』に来てしまう。

 答えないでいると、加戸倉が言葉を続ける。

「いざなぎといざなみの話って、知ってる?」

「この国を創ったっていう神様か? 詳しくは知らないが」

「いざなみが死んでしまった後、いざなぎは黄泉の国までいざなみに会いに行くの。でも、醜い姿を見られたいざなみは、いざなぎを殺そうとする」

「……何が言いたい?」

「案内してもらうのは、ここまででいい」

 言って、加戸倉が右手を差し出す。

「一緒に来てくれてありがとう。あなたと話ができてよかった」

 一瞬躊躇して、差し出された右の手を握り返す。この手に触れていると、姿を消す直前の妻を思い出してしまう。

「それじゃあ」

 握手をほどいて、加戸倉が森の奥に向く。

「あ……」

 ふと、手を伸ばして声を掛ける。加戸倉がこちらを振り返る。

「……いや、なんでもない」

 ご武運を、とか、達者で、というのも何か違う気がして、加戸倉へ言葉をかける代わりに、敬礼をしてやる。妻に会ったら、という言葉はそのまま喉の奥にしまう。

 敬礼を返して、加戸倉が境界の先に消える。空気が急に湿ってきて、少し風が出てきた。ストームグラスを、わずかに空に残った光にかざす。真っ白の結晶が一枚の葉のようになって浮かんでいる。光が消えて、雨粒が一つ落ちてきた。

「白うさぎはどこだ」

 

 誰ともなく、問いかける。