「白い幻」

 

 この街に来てから、よく夢を見るようになった。白と黒が反転したモノトーンの世界。今はもう見慣れた街に、妻が小さな女の子と手をつないで立っていて、その風景には雪が降っている。大粒で、黒い雪。雪は降り積もり、白く変わって、大きな山のようにふくれあがる。ふくれあがった大きな山は白い渦となり、彼女と女の子を一瞬にして街ごと呑み込む。地鳴りのような音を立てて、僕の視界が真っ白に染まる。

 

 目が醒める。パジャマが、汗でべっとりと湿っている。

 見慣れた六畳間の寝室に、白い雪が舞っている。ふわり、ふわり。ゆっくりと、ぼたん雪が積もるでもなく天井から落ちてくる。横に目をやると、妻が半身を起こして、僕を見ていた。

 僕は悪夢を揉み消すように眉間に指を当てた後、頭を冷やしてくる、とだけ言って布団から出る。

 彼女の心配ながらも、同時に何があったのかを追及するような目を見ないように。彼女の膨らんだ腹部を見ないように。

 ベランダに出る。青い空に、薄いうろこ雲がかかっている。少し冷気を帯びた涼しげな風。もうすぐ、この街にも雪が降る。

 僕は雪が嫌いだ。憎い、とすら思うことがある。

 雪の幻が、僕の目の中に降る。雪が降り始めたら、その後には不幸が待っていた。一番初めは、飼っていた愛犬だった。彼のいる景色に雪が降り始めた途端、彼の体調は瞬く間に悪化した。難治性の病気だそうで、どうすることもできないまま、彼はこの世を去った。

 その次は、小学校時代の親友。彼はあるスポーツの有望選手で、卒業後は私立の強豪校への入学が決まっていた。彼に雪が降り始めたのは、小学五年の秋ごろ。それから一年後、彼は交通事故に会い、若くして下半身の自由を失った。僕にとって雪は、不幸の予兆だ。

 僕は空を見上げて、雪が落ちてこないように、彼女からの問いかける視線を避けるように、目の前に手をかざした。

 

 彼女と出会ったのは、大学の時だ。大学三年までは特段親しい中ではなかった。僕が、無意識のうちに彼女を避けていたのかもしれない。彼女のいる風景には、いつも雪が降っていたから。

 自分が持っている特質に気付いてから、僕は何かを選ぶとき、雪が降らないことを一番の基準とするようになった。雪の降らない街、雪の降らない学校、雪の降らない女の子。好きか嫌いかは、どうでもよかった。その選択がただ平凡でつまらないものだったとしても。

それでも、目に降る雪に関わらざるを得ないこともある。大学三年のとき、彼女と同じ研究室に所属が決まった。僕は彼女が嫌いだった。彼女は、雪が好きだったから。故郷に降る雪を愛おしそうに語る彼女を、僕は徹底的に避けた。彼女の雪に対する思いを知れば知るほど、彼女のことが嫌いになった。言われのない八つ当たりであることはわかっている。けれど、雪を素敵だと思うその感覚が、僕は嫌で仕方がなかった。

 なのに、彼女と関わる機会はどんどん増えていった。同じ研究のテーマを選ぶことになり、一緒に飲み会の幹事をやらされ、おまけに、僕が骨休めに行く図書館には、いつも彼女がいた。

 一度、図書館のなかで口論になったことがあった。きっかけは、よく覚えていない。たぶん、とても些細なことだったと思う。揃って図書館を追い出されて、外でも口論をした。

 あまり雪の降らない街だったのに、その日はめずらしく粉雪が舞っていた。そのとき彼女が幼い頃両親と生き別れ、母方の祖父母に引き取られて北国で育ったことを、僕は知った。彼女が始めは、こんこんと降り積もる、色がない、ただ冷たいだけの雪が嫌いで仕方なかったことも。

 僕は彼女に、目に降る雪のことを話した。大人になってからその話をしたのは、彼女が始めてだった。

 次の日、僕は当時つき合っていた恋人に一方的に別れを告げ、平手打ちを一発もらって、それから、彼女と付き合いを始めた。五年間付き合って、夫婦になった。

 

 彼女と過ごす日々は穏やかで、柔らかだった。何気なく隣を見ると、笑っている彼女がいる。彼女は、強い人だった。彼女といれば、自分も強くなれるような気がした。彼女といて、少しは雪が好きになった。けれど、それは本当に、少しだけだった。

 彼女のいる風景には、いつも雪が降っている。僕が見ているのはただの幻で、それが降り積もるはずはないのに、時が立つごとに僕の心に積もる雪は嵩を増していく。

 そして結婚して一年後、北国の街で暮らすことになってから、僕はあの夢を見るようになった。彼女の故郷にほど近い、古くから製鉄所がある港町。十年前、製鉄所の高炉が停まってからは、どんどんと人が少なくなっていくその街に、二人して仕事が見つかったのは幸運だったのか、あるいは不幸なのか。この街にきて彼女に新しい命が宿ったと聞かされたとき、僕はどんな顔をしていいのかわからなかった。

 

 年度末が差し迫ったある寒い朝、陣痛が始まったという彼女に、僕はいつも通り会社に出ると告げた。彼女の祖母が世話をしてくれるから、年末の大繁忙期で仕事を休むことができないから、ということを言い訳にして。

 家を出る間際、彼女が僕に言った。

 あなたは何を見ているの、と。

 僕はこれまでと同じように何も答えずに、彼女に背を向けた。

 深夜まで仕事をして、会社を出た。タクシーを呼べば、病院まで十分もかからない。でも、僕はそうせずに、ゆっくりと歩き出した。

 病院につくと、コートのポケットに手を突っ込んで、外のベンチに座る。僕の体はベンチに埋もれたまま動かないでいた。

 空を見上げる。分厚い雲から、たま雪が降りてくる。視界いっぱいの大粒の雪。これは本物の雪なのか、それとも僕だけに見えるただの幻なんだろうか。

 三度目に雪が降ったのは、僕の両親だった。雪が降り始めたのは、中学に入りたての頃。登山が趣味だった父と母は、僕が中学校を卒業する直前に、雪山で雪崩に巻き込まれ、この世を去った。

 目を閉じると、白い渦がすべてを呑みこむあの光景が目に浮かんでくる。いつか、父や母と同じように、雪が彼女と生まれてくる子どもを呑みこんでしまう時が来るのだろうか。

 気がつくと、傍らに大きな犬がいた。白の、マレンマ・シープドッグ。昔、僕が飼っていた愛犬。

 彼が現れたのは、二年前。これからも彼女と一緒にいて、いずれ起こる不幸を待つのか、それとも、来ると分かっている不幸から逃れるか、迷っていた時だった。

 またお前か。つぶやいても、彼は耳一つ動かさないまま、佇んでいる。

 どうすればいいんだろうな、僕は。一度は答えを出したはずなのに。雪と彼女と、共に生きると決めたはずなのに、僕はまた迷っている。

 ポケットから手を出して、彼の頭に触れようとすると、彼は音もなく、地面に降る雪のように消えた。二年前と同じように。

 白いかたまりが、ふわり、ふわりと、かすかな音を残しながら、降りてくる。ただ雪が降り落ちる、その音だけが残る。

 勝手に現れて、勝手に消えるなよ。

 僕は行き場を失った手を、もう一度ポケットに入れて、空を見上げた。ふう、と息を吐くと、視界が一瞬、白く濁った。

 

 病室の中には、一面にたま雪が降っていた。

 彼女の目が無言で、遅い、と告げていた。

 彼女は窓際に置かれたベッドに半身を起こして座っている。腕には、真っ白な布に包まれた赤ん坊。

 女の子だって。彼女がつぶやいた。

 僕は、病室の扉を開けたまま、そこに突っ立って、ゆっくりと流れ落ちる大粒の雪と、彼女と、もうひとりの彼女を見つめていた。

 話があるんだ。僕の口から勝手に言葉がこぼれる。図書館で言い合った時は言えなかったこと。彼女と一緒にいるときにいつも降っている、白い幻。真っ白の渦に、君と彼女と、この街が飲み込まれてしまう夢。

 話をしている間、彼女は何を言うでもなく、表情を変えるでもなく、ただ僕を見ていた。

唐突に、彼女は腕のなかの彼女を僕に差し出した。え、と素っ頓狂な声を挙げる僕に、早く、と加えて。

 僕は彼女に歩み寄って、手渡された彼女を受け取った。彼女は重たくて、それから、とても熱かった。ただ眠っているだけなのに、私はここにいる、と、全身で主張しているように思えた。

 唐突に、僕は彼女の問いに半分しか答えていないことに気が付いた。僕は、彼女をもう一度腕の中に抱き直して、彼女ともう一人の彼女に、ごめん、とつぶやいた。

 彼女が笑いながら、バカね、と言った。僕に手を伸ばして、いつ間にか降り積もっていた雪を払った。雪を払う彼女から、彼女の匂いがした。