ざあっー、ざあーっと、波と風の音が絶え間なく流れてくる。風は冷たいけれど、身がほどよく引き締まって心地いい。空まで続いていそうな樹に登って太い枝に腰かける。青い空の下に佇む、もっと青い海を見る。海の辺りはなんでか山よりもわずかに赤く輝いているような気がするけれど、そんなことよりも視界一杯に広がる青に圧倒される。

 一際透き通る風が吹いて、ぼくは烏天狗の面を取った。山の外に出る時は面を取ってはいけないと言われている。これをつけると自分が烏天狗になったような気分になる。見えないものを見ることができたり、速く走れるようになったり。その代わり息がしづらくて、山の中にいるみたいで窮屈だけど。

潮風と一緒に思いっきり息を吸い込む。胸の奥になにかが入ってきて、すき間がどんどん埋まっていく。海と空と一緒になる気がして、ぼくは何度も息を吸い込む。

 海に行ってはいけない。昔、ぼくが生まれるより、お父さんが生まれるよりずっとずっと昔、大地が揺れて、魔物が目覚めたのだそうだ。その魔物はいつまでも死ぬことはなく、今でも海の近くに住んでいる。だから海に行ってはいけない。そう言われてきた。

 でもぼくは海というものを見てみたかった。何もかもを抱くほどに広く、深いという海。窮屈な山の中とは正反対で、別の世界があるに違いない。そう思ってぼくは海に来た。

 腰に差してあった笛を口に当てる。海から流れてくる風に乗せて、息を吐き出す。水面がさざめく。波音を乗せて、海から川を上って森に入る。森を抜けると、山を駆け上がって、空に返る。

(やっぱり、海が入ってる!)

 一族に伝わる旋律の始まりは、広い場所から風が吹いているみたいで、ずっと海を表しているんじゃないかと思っていたけど、それが確信に変わる。山で吹いているときはずっと場違いな音だったのに、海の上で吹くと妙に馴染む。気分がよくなってきて、指も息も滑らかに動く。海、風、波、森、川、山。海、風、波、森、川、山。繰り返す。海、風、波……海。

(あれ?)

 海に来て舞い上がってしまっているからだろうか。ずっと吹いているから間違うのは珍しい。でももう一度吹こうとしても、やっぱりまた同じ音が聞こえてくる。

(変だな)

 海の近くでは笛から出てくる旋律も変わるのだろうか。そんなことを思って口を離すと、どこからか笛の音が聞こえてきた。

(ぼく以外に誰かが吹いてる? 海に人はいないと聞いていたのに)

 辺りを見渡す。音は樹の下の森から聞こえる。笛を腰に戻して、烏天狗の面をつける。聞こえてきた音を探るには、この方がいいと思えた。

 樹を降りて地面に立って、耳をすますと、ざっざっという音と、獣の臭いが近づいてきた。銀色の毛の大きな猪。結構歳を取っている。

「天狗か、こんなところに珍しいな」

 しわがれた、深い声だ。なんだかぼくのおじいちゃんみたいに見えて、ぼくはどきっとした。

「いつも笛を吹いているのはお前か?」

「えっ?」

「ここでいつも笛を吹いているだろう。さっきのはいつもと違う曲みたいだが」

「ぼく、ここに来たのは初めてなんだ。海を見たのも……」

風が吹いた。木々がざわめき、笛の音が舞っている。猪がぼくに近づいて、鼻を鳴らす。

「ふむ。確かに風に乗っている音は、お前の臭いと少し違うな。だいぶ似てはいるが」

 どうやらこの猪にも笛の音が聞こえるみたいだ。

「ねえ、笛はどっちから聞こえてくるかわかる?」

「風が吹いてくる方だな」

 さっきまで海から風が吹いていたけれど、今は森の奥から吹いている。

「ありがとう!」

 お礼を言って、風に向かって走る。笛の音を追っていくと、かすかに水が流れる音が入ってきて、足下が濡れた。歩を進めると、水が膝くらいの深さになった。いつの間にか森に通った水の道に立っている。樹木と枝葉がトンネルのように水の道を覆っていて、水面が鏡みたいに景色を反射している。

(こんなところがあるなんて……)

 道の向こうから笛の音が聞こえてくる。足下で跳ねる水の音が混じって、海の音になる。風が吹き抜けて、波がこちらに向かってくる。赤い枠のようなものが近づいてきて、潜り抜けると急に視界が開けた。

 

 海が見える。さっき樹の上で見ていた空と一緒に。後ろを向くと水の道が消えていて、赤い門みたいなのがあった。縦に二本。その上に横に一本乗って、さらにその下に縦の柱を貫いて一本、赤く塗られた木の柱。下の木には、縦の柱の両脇から縄が結び付けられていて、つづらに折られた白い紙が垂れている。たしか、鳥居、というのだったか。とすると、ぼくの目の前にある小さな家みたいなものは、社、というやつだろうか。

神社、という単語が思い浮かぶ。朽ちたものはいくつか見たことがあるけれど、小さいながらもきれいに立っているのは初めて見た。社の両脇に石でできた烏天狗が置いてある。笛を右に構えて、右にだけ翼があるのと、笛を左に構えて、左にだけ翼があるの。

(この像、どこかで見たことある)

 社に近づく。正面の扉には、大きな錠がかかっている。何かが入っているのだろうか。

「おい。お前、どっからきた?」

 急に後ろから声をかけられる。心臓が飛び出そうになって、慌てて後ろを向く。男の子が立っていた。腕を組んで、睨むようにしてぼくを見ている。

「ここは立ち入り禁止になっている。勝手に入ってくるな」

「ええっと……森の中にあった水の道を通ってきたらここに来ちゃったんだけど……、その、笛の音が聞こえるほうに行ったら……」

「笛? あ、もしかしてお前か、さっきの笛は?」

 ぼくと同じくらいの齢、だと思う。男の子はぼくの腰に笛が差さっているのを見つけて、そう言った。

この男の子がさっき笛を吹いていていた。なぜかそう思った。

「お前、間違ってるぞ。なんで途中から変な方に行くんだ?」

 いきなり間違っている、と言われてカチンときた。

「間違ってるのはそっちじゃないか。どうして波の後にまた海に戻るの?」

「波の後にまた海?」

「海から来た波が川を渡って森に入ってくんだよ」

「はあ、お前……何言ってんだ? 本当に怪しい奴だな。格好も変だし」

 男の子がぼくをまじまじと見る。

 鈴懸が珍しいのだろうか。ぼくからすれば男の子のほうが変だ。もこもこした羽織みたいな上着に、すごく細い袴。草履も見たことがない色。動きやすそうではあるけれど、見たことのない格好だ。

 男の子は探るようにぼくの周りをぐるりと見回って、ふと目を止めた。腰。面をひっかけてあるほう。間近まで来て、じっと見る。珍しいのだろうか。

「……なに?」

「その面、どっかで……。まあいいや。それよりお前、何者だ? どっから来た?」

「山の方から……」

「名前は?」

「……渡」

「渡か。俺は武尊だ」

「たける……」

「渡、悪いがこっから出ていけ。さっきも言ったが、ここは立ち入り禁止だ」

「それを言ったら武尊だって……」

「俺はいいの。俺の家はここの『もり』だからな」

「もり? 武尊はこの森に住んでるの?」

「木の森じゃねえ、社の『守』だ」

「なんで立ち入り禁止なの? 別に危ない場所には見えないけど」

「壁がないからな、ここは」

 武尊があごを海の方に向かってくいっとやった。海に壁。何を言っているのだろうか。首をかしげると、武尊はまたさっきの変わったものを見るような目になった。

「お前、もしかして壁を知らないのか。ほんとかよ」

 笛のことを話しているときと同じ気持ちになった。ぼくは村に住んでいる人以外にあったことがないけれど、住んでいる土地が違うとこうも話が合わないのだろうか。なんで海に壁があることが当たり前なのだろう。海に行くなとは言われているけれど、壁があるとは聞いてない。

「ほら、見てみろよ」

 武尊が社の先、岸の方まで歩いていって指さした。海に壁だなんて、そんな馬鹿な、と思いながら、武尊の隣にまで歩いて行って指の方向に視線を向ける。

 そんな馬鹿な、と思った。海岸線に壁が立っていた。見える限りの海岸線に、見上げても見上げきれないくらい高い壁が立っている。

「なんで、さっきまでなかった……」

「昔からずっとあるだろ」

「……ずっと?」

「そうだ。ずっとずっと、前からずっとだ」

 そんな馬鹿な。急に頭の中が真っ赤になって、武尊につかみかかった。

「どうしてこんなことしたんだ! これじゃあ、海が見えないじゃないか!」

「海から来る怪物を防ぐためなんだ。仕方ねえだろ」

「怪物?」

「何百年かに一度、山みたいにでかい怪物が海から来るんだ。あの壁はその怪物から海の近くに住んでいる人たちを守るものだ」

「守る? 海の近くに人が住んでるの?」

「住んでるに決まってる。だから壁があるんだろ」

「でも、何百年かに一度のために、海と大地を切り離すなんて馬鹿みたいだ」

「……じゃあ、お前はその怪物が来た時に、ここらに住んでいる人たちがたくさん死んでもいいってのか?」

 武尊の語気が少し強くなった気がしたけど、ぼくは気にしなかった。

「それにしても、まるで牢獄みたいだ!」

 言うと、武尊が逆にぼくの襟元を掴み上げた。

「よそのものが勝手なこと言うな。この壁はずっと昔に俺の一族が創ったんだ」

 射貫くように言って、武尊はぼくを振り払った。ぼくは派手に地面に突っ込んだ。

「なにするんだ!?」

「この壁のおかげで、たくさんの人が海の近くに住めるんだろ! 仕方ないんだよ!」

「でも、壁を作って海と大地を分けるなんて、おかしい」

「おかしくたって仕方ないもんは仕方ないんだ。出ていけ。よそもの!」

 ただ思ったことを行っただけなのに、なんでそんなに怒られなきゃいけないんだ。こっちもだんだんムカついてきた。

「わかったよ。出て行くよ、こんなところ」

 起き上がって泥を払う。お腹がふつふつとしたまま踵を返して、赤い鳥居の方に向かう。

「もう二度と来るな!」

「頼まれても来るもんか!」

 鳥居をくぐると、景色が一瞬にして切り替わった。微かに地面と森が赤くなった。

(あれ?)

 振り返ると、鳥居も、社も、天狗の像も、武尊も、さっきまであったものがなくなっている。はっとなって、海辺に走った。どこにも壁なんてなかった。

(なんだったんだろう……)

夢、だったんだろうか。でも武尊に転がされたときの、泥と擦り傷がついているし、水の道を歩いて草履と脚絆が濡れているし、やっぱり海にあんな壁を立てるなんて絶対におかしい。考えていたら、また頭に血が上ってきた。百年に一度来る怪物から海に住む人たちを守る、と言っていただろうか。海の近くには人は住んでいないのに。それに、怪物って何だろう。ぼくが聞いている、ずっと死なずに海辺の大地にいるっていう魔物とは違うのだろうか。

 考えれば考えるほど、武尊の旋律が頭の中から湧き出てくる。波に乗った風は、海岸を走り回っていろいろな顔をして、そして海に、空に還る。わけがわからなくなってきた。

「あー、もうっ!」

 叫びながら、地面に倒れ込んだ。

「ちっこい天狗。こんなところで寝ていたら、山犬に食われるぞ」

 寝転んでいたぼくをさっきの年老いた猪が覗き込んできた。

「……ねえ、この辺にぼくみたいなのは住んでないよね?」

「この辺で見た天狗はお前だけだ。昔々、ずっと前には、たくさんお前みたいなのが住んでいて、わしらが住める環境ではなかったらしいがの」

「え、それっていつごろ?」

 ぼくは飛び起きて猪に聞いた。

「知らんよ。わしらはお前さんらに比べたら寿命が短い。昔のことにも、これからのことにもあまり興味はない」

「じゃあ、魔物とか、怪物のことは知ってる?」

「魔物?」

「海の近くにいて死なないとか、百年に一度海からすごく大きいのが来るとか……」

 猪は空を見て、うーん、と考える。

「お前の言う魔物かどうかは分からんが、海の近くにある不吉で大きい岩なら知っている」

「そんなのがあるの!?」

 南の方にずっと歩いて、高台に登れば見える、と猪が言うので連れて行ってもらう。南に下っていくと、地面や木々の赤い光がだんだんと強くなる。

「あれだ」

 高台の崖になったところから、海が一望できた。やっぱり海には壁なんてない。けれど、ずっと遠くに、灰色の岩山みたいのが微かに見える。岩山の色はさっき見た大きな壁の色にとても似て、でも赤に輝いている。その赤い光はひどく冷たくて、おぞましい。立っていると、肌がぴりぴりする。

「あれって、動いたりする?」

「動くことはないが、この辺りの者たちは誰も近づかん」

 言い残して、猪は後ろを向いて森の中に消えていった。

 

「どこに行っていた?」

 どっかりと座ってぼくを見下ろしている長老の声が厳かに落っこちてきた。村に帰るとちょっと騒動になっていて、知り合いに見つかったぼくは、すぐに村の一番大きな屋敷にいる長老に呼び出しを食らった。長老はぼくのおじいちゃんなのだけれど、どっしりしすぎていてちょっと怖い。

「渡、どこに行っていた?」

 答えないでいるともう一回同じ言葉が落ちてくる。長老が同じことを聞いてくるときは、怒ってる時だ。

「えと……ちょっと散歩に」

 長老がぐっと顔を寄せてくる。長老はもう百年近く生きているらしいけど、その目線はとても鋭い。

「お前、海に行ったな」

「……」

「海の方は、この辺りの山より赤く光っていただろう。お前に少しその赤い光がついている」

 ぐっ、とつまる。なんでかは分からないけれど、長老の言ったとおり海の方の土地はほんとうにわずかだけど赤く光っていた。こっそりとその赤を落とすように体を払う。

「全身についている」

「いや、これはちょっと体がかゆくて……」

 長老はまたじっとぼくを見ると、大きくため息をついた。

「あれほど行くなと言ったのに。面はずっと外さなかっただろな」

「あ、うん……」

 腰の面をちらりと見る。そう言えば、武尊と会った後、ずっとつけるのを忘れていたけど、それをいうともっと怒られそうだったので黙っておく。

「その赤い光はな、わしらには毒なのだ。特に、おまえのような子どもには」

「べつになんともないけれど。それにぼくはもう子どもじゃない」

「今はなんともなくとも、浴び続ければ毒になる。お前はまだ小さい。だからもう海には行くな」

「じゃあ大人になったら行ってもいいの?」

「ダメだ。子どもへ害が大きいだけで、大人でも害はある。今後一切、生きているうちに海へ行ってはだめだ」

「猪とか、動物も普通にいたけど」

「動物と人は違う。海にはもういくな。わかったか?」

 じろっとした目がさらに強くなった。

「……はい」

 納得はできなかったけれど、文句を言ってもさらにお説教を喰らうだけなので黙っておく。

「罰として三日間、祠へ朝のお祈り」

 げぇ、という言葉をお腹に力をこめて抑える。分かってはいたけれど、とてもイヤになる。祠はこの辺りの山の上にあって、毎朝、長老がお祈りに行っている。これをするには朝早く起きて、山道をずっと登っていかなくてはならない。しかも、長老と一緒だからサボることもできない。

「話は以上。明日の朝、またここに来い。笛を忘れるなよ」

 がっくりと首が落ちる。あーあ、と声に出さずに呟いて立ち上がって、後ろに下がる。

「渡」

 まだなにかあるのか、と長老へ振り向く。

「風呂に入ってよく体を洗え。それとすぐに着替えて、その服は置いていけ」

「なんでさ?」

「赤い光は払っても消えないのだ。誰にも触れないところに埋めるしかない」

 面倒くさいなあ、とは思ったが、長老の顔は真剣で、怒っているというより問題が起きたときにどうしようか考えている顔だった。

 ふと、高台から見た赤く光る岩山を思い出して、背中に寒気がした。

 

 朝、天気はよかったがまだまだ寒い。おかげですっかり目が覚めてしまった。以前までの刺すような空気がちょっとはほどけているけれど、まだまだ春は遠い。長老の後ろに着いて雪の残る山道を登っていく。

 視界の開けたところに、大きな樹がある。ぼくが海で登ったのよりは高さはないけれど、ずっと太い。今は葉っぱが落ちてしまっているけど、どんと構えて座り込んでいる。樹の根元に大きな洞がある。ぼくらの村ではそれを祠と呼んで奉っている。祠の中には、笛を模した木の棒と、面を模した面長の木の板が置いてある。それと両脇には石でできた烏天狗像。

 頭を下げて、手のひらをぱんぱんと二回打つ。目を閉じると、風と、時折鳥が鳴く以外の音が消える。

 ふと、武尊と会った場所を思い出した。赤い木の鳥居と、小さな社。似ている、と思う。社というのも、確か神様の住まう場所だと聞いたことがある。そういえば、武尊のところで見た天狗の像も、笛を構えて片方ずつ翼がなかったけれど、祠の両脇の天狗像も同じだ。この像は昔々、二匹の烏天狗が空を飛んでいるときに黒い雷に打たれて片方ずつ翼を失い、この地に降り立った。そう伝わっているけれど、それは本当なのだろうか。

「ねえ、この片方ずつしか翼のない天狗像って、どこにでもあるものなの?」

長老の眉がぴくりと動いた。

「なぜそんなことを聞く?」

「……海で似たようなのを見たから」

 じっとこっちを見ている長老の視線を気にしないように、ぼくは笛を取り出した。お祈りの後は、祠に笛を捧げる習わしだ。長老が隣にいてちょっと緊張するけれど、この、どんと構えた樹の前だと頭の中がすっとなって、笛に集中できるから、嫌いではない。

祠の前にひざまずく。構えて、息を吸い込む。ふっと風が頬を撫でたのを合図に、息を吐き出す。風に笛の音を乗せる。海からの風、波、大地へ向かう風が川から森を抜けて、空に登る。

「音がずっとしっかりしてきたな」

 吹き終わると、長老が珍しく褒めてくれた。

「海を見ながら笛を吹いたんだ」

 怒られるかもしれないけれど、ぼくは自然とそう言っていた。

「ずっと思ってたんだ。曲の前半は山じゃなくて別の場所を表しているんじゃないかって。この曲は海が始まりになんだって。違う?」

 聞くと、長老が嘆息した。

「長老も海にいったことがあるんでしょう?」

 聞くと、ずいっと顔を向き合わせる。圧力がすごくてひるみそうになる。

「知りたいか?」

「そりゃあ……知りたい」

 確かめるように聞かれた言葉に、ぼくは力強くうなずいた。

「なら、明日だ。今日は帰るぞ」

 そう言うと、長老はそれ以上何も言わず、背を向けて山道を戻り出した。

 

 次の日の朝、同じように長老の後ろについて、山を登る。祠を拝んで、笛を構える。隣で長老も笛を構えた。

「しっかり見ておけ」

長老が強く音を出した。始めは、風だ。風が波を作って、海が大地に向かう。ぼくの笛と長老の笛が重なると、波が力をつけて、真っ黒になった。

 ぞくり、とした。海がこんなふうになるなんて。

(知りたいか?)

 昨日の長老の問いかけが甦る。ぼくは何を知りたいのか。昔、長老が海にいたことか。笛の始まりが海なのはなんでなのか。どうしてぼくらは今、海ではなく山にいるのか。どうして海に行ってはいけないのか。それは知っていいことなのか。

笛の音が答えた。黒い波が渦巻いて、大地を薙ぎ払う。直後、赤い光の柱が伸びて、弾けた。赤い光は、あの岩山から出ていたものと同じだ。でも、比べ物にならないくらい強い。

(なに、今の?)

 赤く弾けた光が、雨になって森に降り注いだ。赤い色の雨が森を染めて、木々や葉っぱがどんどん枯れ始めた。倒れているのは、動物と……人、だろうか。

 音が消えた。視界が真っ赤になって、それ以外は何もなくなった。

「海に行ってはいけない理由がわかったか?」

 長老の問いかけにぼくは答えられなかった。気がつくと汗をびっしょりとかいている。背中が寒くて、全身ががくがく震えている。

「昔、わしらの一族は海に住んでいた。だが、ある時、赤い光が海辺の大地を覆って、海に住めなくなった。海を追われて遠く離れた山まで逃げてきた。わしが今のお前よりも小さい頃の話だ」

「その前の黒い海は……?」

「大地が大きく揺れて、森に襲いかかったのだ。普段は穏やかでも、海がひとたび暴れ出せば、我々人間などひとたまりもない。人の作ったモノも」

 壁は怪物から人を守るためのもの。武尊はそう言っていた。でも、もしあの真っ黒い波が襲ってきたら、あの壁は本当に人を守ってくれるのだろうか。

「右側の烏天狗像は海が暴れて一度なくなったものだ。山に来て、もう一度作った」

 顔をあげる。言われてみれば、右側の方が傷が少ない気がする。

「像だけではない。お前が持っている笛と面も、元々は二つずつあったが片方は海に流されてしまった」

「……そうなの?」

 笛と面。ぼくが一〇歳の時にお父さんからもらったものだ。お父さんもおじいちゃん、長老からもらって、おじいちゃんもおじいちゃんのお父さんからもらったと聞いている。

「お前が持っているものだけがずっと昔から引き継がれてきている」

「でも、笛も面も、村にはたくさんあるじゃないか」

「お前が持っているもの以外は全て模造品だ」

「……天狗が黒い雷に打たれたっていうのは嘘なの?」

「わしらはもう海に戻ることはできん。だからこそ一族から海を消した」

「でも……それまでは、ずっと海にいたんでしょう……」

 言いながら、言葉が弱くなるのを自覚する。勝手に起こったことを変えるなんて、ずるい。でも大人にそんなことを言われたら、子供は従うことしかできない。納得できないけれど、そうするしかない。

「……帰る」

 けれど、そのまま飲み込むのも癪で、長老に背中を向けて、ぼくは山道を一人で降り出した。

 

 ふつふつと消えないものが残ったまま翌朝を迎えた。長老と朝のお祈りに行くのは今日が最後だ。行くのはとんでもなく嫌だったけれど、行かないのもなんだか嫌だった。

 山に登る入口で、長老が待っていた。ぼくが来たのを見ると、そのまま黙って歩いていく。祠の前について形ばかりのお祈りをする。次は献笛。

「ぼくがやる」

 長老の前に出て、黙って笛を構えた。息を吸って、風を待つ。海の景色が浮かぶ。風が海を滑って、波を作る。そのまま森に向かわず、空に登った。くるくると空を舞い、砂浜に降り立って海岸を走る。壁みたいになった岩場を縫うように飛ぶと、波しぶきが弾けて、また海に返る。うろ覚えのところもたくさんあるけれど構うものか。何度も何度も、ぼくは海を走り回った。

曲が終わって笛を外すと肩で息をしていた。どうしてだか、悔しくて、もどかしくて、涙が出てきた。

「渡、その曲はどこで覚えた?」

「……」

「……その昔、まだ海に住んでいたころ」

 答えないでいると、長老が話を始めた。

「『海と山が出会うとき、世界が一つになる』、というのを聞いたことがある」

 なにそれ、と聞こうとすると、突然別の声が聞こえた。

(わたる!)

「え?」

長老が、どうかしたか、と視線で聞いてくる。長老には聞こえないみたいだ。驚いてあたりをきょろきょろしているともう一度、もっと強い声がした。

(渡!)

「武尊!?」

 声に答えた。

(渡、今すぐこっちに来い!)

「今すぐって……」

(いいから早く来い! 『世界を一つにする』んだ)

 はっとする。さっき長老から聞いたばかりの言葉だ。

「行かなきゃ」

 そう声に出していた。

「どこに、だ?」

「……海」

 応えると、長老の反応を待たずにそのまますぐに駆けだした。

 

 行かなきゃ。

 急いで山を下って、また登って下る。風に背中を押される。空が開いて、また閉じて。時間が過ぎるみたいに景色が変わっていく。面を被って走る。潮風に混じって海を駆け回る音がかすかに聞こえる。森に入って、水の道を進む。木々と葉のトンネル。足を踏み出すごとに水が鳴る。赤い鳥居を抜ける。

 心臓がどんどんと打って、胸が苦しい。膝に手をつく。ぜえぜえと息をつく。面を取って顔を上げると、武尊が立っていた。

「遅い」

「いきなり、呼び出すからだろ……なんだよ、急に……」

「うちの古い書物に、『海と山が出会うとき、世界が一つになる』って書いてある」

「それ、うちの長老、っていうかじいちゃんも言ってた」

「そうか、やっぱりな」

 武尊はぼくの言葉を聞くと、社に向かった。どこからか大きな鍵を取り出すと、扉にかかった大きな錠を外した。扉を開けると、中に棚があって、桐の箱が二つ入っている。両手くらいのと、細長いの。

「何が入ってるの?」

 武尊が妙に慣れた手つきで、箱のひもをほどいて、それぞれ中のものを取り出す。

「じいさんにバレるとすげえヤバいけど、たまに開けて、吹いてる」

箱から出てきたのは、笛と、面だ。ぼくが持っているのとそっくりの。たぶん、ぼくが海に初めて来た時に聞いた笛は、武尊がここで吹いていたもの。

「初めて会った時に、お前の持ってた笛と面を見て、もしかしたらって思った」

 社に、笛と面と、片方ずつ翼が欠けた烏天狗の像。村にある祠に本当に同じだった。

「俺のは海の笛。お前のは山の笛」

 心臓が、どくんと言った。

「ぼくのと武尊のを一緒に吹いたら世界が一つになる? でも一つになるってどういう……」

「わかんねえよ。でもお前の世界には壁がないんだろ。壁がない海を見たいってずっと思ってた。お前もそうだろ。世界が変わるなら、見てみたくないか?」

 世界が変わる、そんなことができるのか。でももし、それができるなら、見てみたい。山の中に閉じこもって、海が見られない世界なんて、ずっと窮屈だって思っていた。

 武尊が面を後ろ頭に被って、笛を構えた。ぼくも同じように面を後ろに被って、笛を構える。

「渡、お前、左利きなのか?」

 お互いに笛を構えて向き合うと、烏天狗の像が鏡合わせで向き合ったみたいになった。

海の匂いがする空気と一緒に大きく息を吸い込むと、ひゅっ、と風がぼくらの間を抜けた。ぼくと武尊が同時に波に乗る。二つの波が重なって海を滑る。大地に向かって、波が二つに分かれる。海辺を駆け回るのと、川を駆け上がるの。一つは砂浜から岩場を舞って、もう一つは森を抜けて山を登る。そうして、空でもう一度音が出会った。どんどん登って、雲より高く上がる。追いかけっこするみたいに、笛の音がどんどん空を登って星空まで。

 息が続かなくなって、笛を離す。全力で走った時みたいに胸が苦しくて痛かった。

「海はどうなった?」

武尊がよろよろと海辺まで這って行く。壁は前に見た時と同じように、灰色のままずんと立っていた。

「なんにも、変わってねえ……くっそ!」

 武尊が地面に大の字になった。ぼくもなんだかどっと疲れてしまって、同じように倒れ込む。

「言い伝え、嘘なのかな……」

「いや、だいたいはあってるはずだ」

 なぜか武尊はきっぱりと言い切った。たぶん、そこに根拠はないんだろうけど、ぼくは武尊の言い方が妙に気に入った。

「……そうだね」

 息を整えるのに、海の近くの空気を思いっきり吸う。そう、たぶんだいたいは合ってる。

「ぼくが海の笛を吹いて、武尊が山の笛を吹く方のはどう?」

「そうだな。やってみるか」

 武尊が立ち上がる。

「海の笛、教えてよ」

「俺も山の笛を教えてもらわなくちゃな。そうだ、ついでにこいつらも交換したらどうだ?」

 武尊が面を外して、笛と一緒にぼくに差し出した。確かにそうした方がお互いの世界が混ざりやすくなるかもしれない。

 笛と、面を交換する。形はそっくりだけれど、使っている人が違うからだろうか、持った感触はどこか異なる。武尊からもらった笛に息を吹き込む。少し癖が違うのか、音が出づらかった。

「じゃあ、海の曲を教えるぞ」

「いや、山の方からだよ」

「なんでだよ、海を変えたいんだったら海の曲からだろ」

「勝手に決めるな。じゃあ、先に笛の音がちゃんと出せた方から、っていうのは?」

「上等だ。絶対俺の方が早い」

「ぼくの方が早い!」

 

 もう一回、笛に息を吹き込む。音は出ない。空から風が舞い降りてきた。さっきまで、ぼくらが吹いていた音だろうか。その風には山の匂いと海の匂いが混ざっていて、ぼくは一瞬、どこにいるのか分からなくなった。それは初めてのようで、でもどこか懐かしいものだ。