若い木が生えていて、その下にウサギがいる。木は自分の腰にも満たない高さで、ウサギは両手に少し余るくらい。

森の中だから木はそこら中に生えているし、ウサギも白の普通のウサギだ。でもそれは奇妙な光景だった。なぜなら木が生えているのは地面からではなくウサギからだからだ。目を閉じてうずくまっているウサギの背から、若い木が生えている。

冬虫夏草、というものなら見たことがある。虫から生えているキノコだ。しかし、動物から生えている木は、見たことがなかった。

近づいて見ると、さらに奇妙なことに、ウサギの身体がわずかに鼓動して、わずかに温かい。木がなければウサギはただ寝ているだけにも見える。

「あんまり近づかない方がいい」

「ぎはやっ!」

 いきなりのことに、ぎゃあ、とひゃあ、を組み合わせた音を腹から出して、振り返る。いつのまにか男が立っていた。

 歳は俺と同じ二十歳前後と言ったところだろうか。向き合ってもそこらにある木のようにただ立っているだけで、気配を感じさせない。

「森に魅入られるよ」

「俺もこのウサギみたくなるってことか?」

「あまり見ない顔だね。こんなところで何を?」

 男は答えずにこちらをじっと見ながら、抑揚のない声で言う。

「単なる通りすがりだ。北に向かっている」

「こんな森の中を単に通りすがる人に会ったのは初めてだ」

 それはそうだろう。街道はこの辺りの森林とそれを囲むようにそびえる山岳を大きく迂回するように通っている。森を突っ切ろうと考える人間はあまりいない。

「ぐるりと大回りするより、まっすぐ進んだ方が早いだろうからな。あんた、この辺の人か。ちょうどいい、森を抜けるまで案内してほしいんだが」

もちろんそんなことを言っても、森の中に入り込む怪しい輩であることは変わらないだろう。男はこちらにじっと視線を向けたまま、佇んでいる。

「タダで、とは言わない。ガイド料金くらいは払える」

「お金は、別にいらない。通りすがりなら、早く通っていってくれればいい」

 男がくるりとこちらに背を向けて、歩を進めた。

 

 男は森の中を流れるように進んでいく。急いでいるわけでも、跳びはねていくわけではないのに、一人でここまで歩いてきたよりも早く周りの風景が流れていく。流れていく景色に、また奇妙なものが現れる。

 今度は仔馬だ。まだ小さな成りではあるが、先ほどのウサギよりも大きい木が仔馬から生えている。周りを見渡す。コヨーテや鹿が目に入る。いずれも、身体から木を伸ばして地面に張り付いたように動かない。いや、むしろ木がその動物たちを地面に押し付けているようにも見える。すべての木ではないが、ぽつりぽつりと、木を生やした動物がいる。

不思議そうにそれらを目に留めていると、男が肩越しにまたじっとこちらを見ていた。

「なんなんだ、この森は? 動物から生える木なんて聞いたことがない」

 聞くが、男は答えずに前を向いて歩きだす。

「何の目印もなしに、森の中を進んでくる人もあまり聞いたことがないよ」逆にこちらに訊いてくる。

「別に特殊なことをしているつもりはねえよ。この森を抜けるイメージが見えた。見えた通りに進んでるだけだ」

「抜けるイメージが見える?」眉をひそめて、男が聞いてきた。

「そのまんまだ。紙に書いた迷路の入口からどう進んでいけば出口までいけるか、見ればわかるだろ。それと同じだ」

「紙に書いた迷路の全体が見られれば入口と出口をつなぐことができなくはないけど、森の全体を見渡すことはできないじゃないか」

「知らねえよ。見えるもんは見える、それだけだ」

「それなら、森も同じだよ。木が生えた動物がいる。それだけ」

 男は言いながら岩のくぼみに足を引っかけて登っていく。それにならって岩に足をかける。苔むした岩の平らなところに、狼がへばりついてる。狼の背中から片腕が回るくらいの木が生えていて、腹からはこぶしくらいの根が何本も地面に向かって伸びている。鼻の部分に手をやると、狼の寝息で空気が流れていくのを感じる。

「生きているのか、こいつら? 息はしているみたいだが」

「夢を見ているんだ」

「夢?」

 ひょいと飛び降りた男を追って、岩に沿って生えている木の弦を手掛かりに岩を降りる。男が岩に目をやっている。

「この森に魅入られたものは、みんな夢を見ている」

男の視線を追うと、鹿が岩に寄りかかっていて、降りる時に伝ったひょろ長い幹が光を求めるように体から伸びていた。生えた木がなかったら、目を閉じて木陰でただ眠っているようにも見える。

「夢ね。さぞかしいい夢なんだろうな」

 言うと、男は少しだけ考えるように目を閉じて、もう一度岩傍の鹿に目をやる。

「さあ、どうだろうね……」

 

 太陽が傾き木陰が濃くなって、見上げると、木々と木の葉が闇をまとっている。大きなベッドが二つくらい入る開けた場所で足を止める。まだまだ森は続いている。今日はこの辺りで野宿だ。

「薪を集めてくる」

 偶然なのか、今日一日動いている動物には出会っていないが、さすがに火を焚かないわけにはいかない。

「……必要ないよ」

 俺を制止すると、男は右手をしばし握りしめて、中にある何かを放り投げるように手をかざした。

「照らせ」

 男が命ずると、頭上に小さな太陽が現れた。日が逆登りしてきたように、木陰が遠のいた。

「あんた、『心喰い』か。通りで」

「どういう意味?」

「通りで無機質だと思ったよ」

 それを聞いた男の顔が男の眉がぴくりと引きつった。

「その呼び方も、印象も、あまり気持ちいいものではないね」

 何もないところから光や炎を出したり、手を触れずに物を動かしたり、つまりは奇妙な術を使うことができる者を『心喰い』と呼ぶ。術の源は人の心だと言われている。人の心を喰って力に変える。だから、心喰い。

「これまでに何人か、会ったことがある。どいつも人形みたいなやつだったからな」

「ぼくは人形じゃない」

 ムキになっている男の顔を見ていると、口元が緩んでくる。

「なにがおかしい?」

「いや、昔の馴染みを思い出しただけだ」

「ぼくは、人の心を喰ったりなんかしない」

 男がどかりと、地に座り込みながら、子供だと言われた子供みたいな顔をした。俺が知っている一人の心喰いの顔が浮かんだ。

「わかった。悪かった」肩をすくめる。

男に倣って体を休めるのに心地よさそうな場所を探す。男の正面の先に二股になった木がたち登っていて、その麓にはバイソンがうずくまっている。俺は歩いていって、それにもたれかかった。背中を預けると、毛皮の奥からゆっくりとした鼓動と、ほんのかすかにだけ、体温を感じる。動物の臭いではなく、毛皮からは木々の香りがする。

 正面を見ると、男も奇妙なものを見るような顔でこちらを見ている。

「あんまり近づない方がいいって言わなかったっけか」

「森に魅入られるんだったよな。でも木が生えていたのは、四つ足の動物ばかりだ」

「まだ見ていないだけかもしれない」

「人に生えている木、とかか? いや、それはないね」

「なんで言い切れるの」

「なんとなくだよ。それに、あるかどうかもわからないものを気にしていてもしょうがない」

「君がそこで眠ったら、そのバイソンと同じように夢を見続けることになるかもしれない」

「一面牧草だらけの平原でずっと食べている夢とかか? 気楽そうで悪くはない」

「いい夢を見ているとは限らない……」

「まるで自分も夢を見たことがある、とでも言いたそうだな」

 男が一瞬、金属のような鋭い視線を向けてきた。だがそれもすぐに地面に落ちた。

「この森に魅入られたものは、みんな夢を見るんだ」

「じゃあ、夢を見なかったら、森に魅入られてないってことになるな」

「この森に入れるのは、森に魅入られているからだよ」

「魅入られていようがいまいが、どっちでもいいさ。あと二日も歩けば、森を抜けられるだろ。そしたら、この奇妙な森とはおさらばだ」

 言うと男がじっとこちらを見定める。それを気にせず、俺はバックパックから食料を取り出して、横になった。

「寝ながら食べると牛になる」

「それは困るな、木が生えてくる」

水気のない干飯を噛みながら言う。

「あんたは、なんにも食わなくていいのか」

「気にしなくていいよ。君の心を食べているから」

「嫌味か」

「分かってくれてありがとう」

「嫌な奴だな。食い物を持ってないなら、そっちに生っている黄色い木の実は食えるぞ」

 男の背後から生えている木の枝を指さす。この季節ならば、熟した果実がそこらにある。

 干飯を飲み下して、バックから布に包まった鈴を取り出す。小さな鉾の鍔に、小さな鈴が八個。しゃん、しゃんと鳴らす。男が、片目を開けてこちらを見ていた。

「まじない、というか、寝る前の儀式みたいなもんだ」

 鈴は虫と葉と風の音を縫って、辺りに広がる。男は何も言わず、また目を閉じた。

 

 息苦しい。呼吸器に流れる空気の緑が濃くなった、そんな気がした。

 目を開ける。夜はとっくに空けて、木々から光の筋が地に落ちている。

 周囲を見渡す。昨日から変わったことはないはずだ。起き上がると、男はこちらが目覚めるのを待っていたようだ。

 再び歩き始める。今日は心なしかペースが遅い。いや、それよりも昨日までとは何かが違う。なにか、と聞かれても答えづらいが、起きたときに感じた緑色の何か。目に見える森の様子は特に変わらない。だが、気配を濃く感じる。

「先に行ってくれないかな」

 まっすぐに進んでいると、男が言った。

「疲れたか?」

「そんなところかな。まっすぐに行けばいい」

 顔色を変えずに言う。なんだろう、緑が濃くなった分、男から感じる色が薄くなったような。

 男の脇を抜け、こちらが前に出る。

「なあ、こっちで合ってるのか?」

 しばらく歩いて聞く。しかし、その問いかけに答えは返ってこない。代わりに、声と殺気が届いた。

「貫け」

 背中が粟立って、とっさに左に転がった。さっきまで俺の前に立っていた木に、氷の矢が突き刺さった。

体をひねって、矢が飛んできた方向を見る。男が温度のない目で、こちらに手をかざしていた。

「……なんのつもりだ?」

「夢を見るんだ、この森にいるものは。夢を見ない者は、森には入れない。でも君は違う」

 緑色が瞬いた。瞬いたその時、男の背後に、男と女が現れた。歳は世代が一つ上くらい。二人とも口元は微笑んでいるように見えるが、目が凍り付くように冷たい。気のせいか、目の前に男に面影があるような。

(なんだ?)

 幻を振り払うように、目元に力を込めると男と女は消えた。

「異物は排除する、とでも? わざわざ消さなくても出ていくさ」

「漏えい防止も含むよ」

「俺がおしゃべりに見えるか?」

「残念だけどぼくは君のことをよく知らない。それに君がこの森を出て、ふと誰かに話をする可能性はゼロじゃない」

「可能性の話をするなら、俺だけが特別とは限らない。他にもこの森を見られる奴がいるかも」

「言ったよね、この森に魅入られたものは夢を見るって。ぼくの望みは少しでも長く夢を見ていることなんだ。そのためならこの森に害が及ぶ可能性は少しでも減らす」

(くそったれが)

 茂みに飛び込んで中腰に駆ける。

「斬り裂け」

 冷や水のような殺気と声にはっとして足を止める。冷気の刃が目の前の茂みを薙ぎ払い、緑色の破片が飛び散った。木の生えた動物を探す。寝そべっている馬がいた。その裏に身を隠す。

(落ち着け)

 身体を小さくして馬に背を預ける。こちらの武器は短剣くらい。地の利はあちら、おまけに心喰いときた。とはいえ、絶対的に不利なわけではない。たぶん、あいつはこの「森」を傷つけることはしない。辺り一帯をまとめて薙ぎ払うような真似はしないだろう。ということは、厄介な飛び道具を持っているくらいの感覚で良い。

 馬の木を背にしてまっすぐに走る。見えないところをピンポイントで攻撃することができないなら、視界に入らなければいい。

倒木を飛び越え、地に伏せる。横たわる木に沿って這って進む。切れ目で立ち上がり、ジグザグに丘を登っていく。

「降り注げ」

 視界が利く場所に出ると、氷の矢が雨のように降ってきた。木々を盾に使いつつ、走る。

木々と茂みで見通しがいいわけではない。身を隠す場所はある。

 と、不意に緑が耳に入ってきた。後ろから複数の足音が聞こえてきた。

なぜだ、なぜ……。

 何度も聞いた言葉が届いて、背中から胃を突き上げられた。思わず立ち止まる。

「斬り裂け」

 まっすぐにこちらを捉えた男の目と刃となる氷の風を横にすっ飛んで交わす。腰まである茂みを抜けて、また走る。

(なんだ、今のは!?)

 後ろには男が一人しかいない。それなのに、複数の足音と声が聞こえてくる。振り返れば、男以外の者が見えるのだろうか、馴染みのある者の。

(これが夢だってのか、冗談じゃねえ)

 なぜだ、なぜ……。

 もう一度聞こえる。聞きたくもないあの声たち。

 つかまってはいけない。後ろを振り返ってはいけない。とにかく、木々を背にしながら走る。

 走っていくと緑がどんどん濃くなる。自分の足音、男の足音、他の足音。それから声だ。男のものではない。どうして、と問ううめき声と、ささやく女の声。緑がざわめくと、誰からの後姿と今駆け抜けた景色が見えた。こいつを殺さなくては。

 はっと我に返る。今見たのは俺か? 殺す、誰を? 俺は俺を殺そうとしていたのか。そんなわけはない。俺は追われている。だから走っている。だが、時折聞こえる。殺せ、と声が聞こえる。

「突き刺せ」

 殺気を感じて前転。後ろの地面に氷の槍が刺さっているようだが、気にせずに起き上がって走る。狙いをつけているのに、どうしてことごとく交わされるんだ。飛んでくるのがわかるからだ。何で分かる。説明はできないが分かるものはわかる。どうしてなんだ。殺せ。うるさい。

俺は追われているのか、それとも追っているのか。だいたいなんで殺されなきゃいけないんだ。なんで殺すんだ。

誰かに問いかける。と、男のものでもない。誰の声かはわからない。しかし、問いに対する言葉ははっきりと聞こえた。

「あなたが私たちを殺したから」

「あなたが私たちを救ってくれなかったから」

 

 気配が消えた。声も消えた。日差しが消えた。聞こえるのは、自分自身の乱れた呼吸と激しい心音。見えるのは、濃い緑。

いつの間にか樹冠が厚くなっている。見えていたはずの青い空が、木々と葉に遮られて、辺りが鬱蒼としている。目に入ったのは、狸だ。根っこに覆われて、立ってこちらにじっと目を向けている。驚くべきことに、その体長は俺と同等だった。

(狸ってこんなにでかかったか?)

 脇を見てぎょっとする。トナカイの脚だ。これも根っこに囚われているが、頭の位置が俺の頭上にある。見渡すと、辺りは両腕を回しても大いにあまる大木と、その元に立つ動物たち。どれも俺が知っているものより倍以上にでかい。

 周りを見ながら歩みを進める。

 脚から頭までが俺の身長と同じ狐、それより大きな狼、俺の倍以上背丈のある熊。ネズミですら俺の腰くらいある。

 違和感を覚える。大きさだけではない。先ほどまで見ていた動物の木とは何かが違う。立っていることが一つ、これまで見てきたやつらはみんな大地に伏して眠っていた。だが、周りにあるものたちはみな立っている。もうひとつは、目だ。開いてはいる。しかし、何かを見ているようには見えない。ただ開いているだけ。

 目の前のトナカイに触れるとその表面は、木のようにゴツゴツと硬く、鼓動も体温もない。昨晩寄りかかっていたバイソンとは感触が全く違う。まるで、文字通り木の一部になってしまったようだ。

「なん、なんだ、君は……?」

 男が息も絶え絶えに追い付いてきた。殺気はなかった。

「殺すのは止めたのか?」

 言うと、じっと睨んでくる。

「ぼくが君を殺そうとしていたのか、ぼくがぼくに殺されそうになっていたのか。追っていたのか、追われていたのか。わけがわからない」

「大変な夢を見せてくれるな、この森は。ほんとうに何なんだ、この森は?」

「ぼくだってこの森をちゃんと知っているわけじゃない。さっきみたいに自分以外の意識や夢が入ってきたのは初めてだ」

 男はこちらの脇を抜けて、前を行く。しばらく行って立ち止まると、こちらを見た。

 猪だ。どのくらいの大きさだろう。精いっぱい見上げてもそのてっぺんまでを捉えることができない。

「さっきのはよくわからないけど、ここが森の最奥。滅多に入ることはできないのに、なんだって君はこうもたやすく入ってこれたかな」

「いきなり殺されそうになったり、いろんな連中に追われたり。たやすく入ってきた覚えはねえよ」

「ぼくだってここに来たのは二回目だ。来ようと思って来られるわけじゃない。森の最奥が呼ばないと、来られない」

「まるでこいつらが意思を持っているような言い草だな」

「ぼくだってこの森のことをよくは分からない。ただ、そんなふうに思えるってだけだ」

 ぐるりと見渡して、木の一部になったやけにデカい動物たちを観察してみる。彼ら目は何を見ているわけではないのに、たくさんの何かに見られている気はする。

「で、なんでこいつらは俺をここに呼んだんだ?」

「言ったろ、ぼくにもよく分からないって」

「神のみぞ知る、ってことか」

 少し下がって、そびえたつ猪を見上げる。それは、馴染みのある感覚だった。例えば鎮座した巨石、そびえる山々、落ちる大滝。

「あんたらと同じだな、この森は」

「どういう意味?」

「心喰いは心を喰って術に変える。この森は、動物を木に変える」

「人をバケモノみたいに言わないでくれるかな。前にも言ったけどぼくは心を喰ったりしない」

「霊遷し」

「タマウツシ?」

「俺の知っている心喰いが、自分たちのことをそう呼んでたのを思い出した」

「ふうん……」

 舞を見せてくれよ。あの男の声が聞こえた。懐かしい声だ。これもこの森が見せる夢なのかもしれない。

「あんたが呼んだのか?」

 つぶやく。背負った袋から鈴を取り出して、猪の前に少し広くなっている場所でまっすぐに構えた。

「呼ばれたのなら、応えてやるか」

 

 息を吸う。足を上げて、そのまま大地に降ろす。地面は土だが、だんっ、と音が降りた気がした。