「冬鈴」 

 

  激しく戸板を叩いていた風と、雪の音が消える。ほのかに甘い香りがして、唇に柔らかいものが触れた。冷え切った体に、口元からぼうっと熱が入ってくる。意識が朦朧として、視界が白くぼやけてくるのに、美しい、しかし表情のない女の顔がはっきりと見えた。

「私のことを誰かに洩らしたら、その時は、あなたを殺します」

 抑揚のない温度の低い声と、小さな鈴の音が耳に入り、そこで俺の意識が途切れた。

 

 眩しい。昨日の吹雪は収まって外は晴れている、らしい。体の周りがやけに冷たくて、雪の中に寝転んでいるのだとわかる。昨晩は山小屋の中で寝ていたはずなのにどうして外に寝転んでいるのだろう。

 目を開けて、さらなる違和感を覚える。どこを見ても、白一色だ。晴れ渡っているはず空も、雪を被った木々や枝、岩肌も、一緒にいたはずの父も。目が見えなくなったのだ。そう気づく。

 辺りから、すべてが消えた。ならば、俺も一緒に消えてしまえばいい。もう一度目を閉じようとすると、突然短く、硬く、乾いた音が耳に届いた。衝動的に立ち上がり、耳を澄ます。金属を打つ音だ。小さいが、キン、キン、と一定の規則で、何度も聞こえてくる。乾いた音に交じって、リン、と鈴の音。乾いた音は、距離を変えずに飛んでくるが、鈴の音は、徐々に遠ざかっていく。

 遠くなる鈴音を追いかけるように足が動いた。鈴の音に導かれるようにして山を下りていくと、音の源にたどり着いた。粗末な小屋のようなところだろうか。手で壁を探りながら、入口を見つけようと壁を手で探っていると突然音が途切れた。木戸の感触を見つけて中に踏み入ると、男のうめき声が聞こえる。

 慌てて駆け寄ろうとすると、リン、と先ほどまで鳴っていた鈴の音と、ほの甘い空気が間近に迫って、細く冷たい手が肩に置かれた。ぞくりとして立ち止まる。抑揚のない、しかし凛とした声が届く。

「この人は私が。貴方は、ツルを」

 肩から手が離れて、衣擦れの音が小屋の中央に向かっていく。恐る恐る近寄ると、手に何か硬い物を握らされる。これは、ハシか。

 と、急に視界が開けた。見えるわけではないが、わかる。鉄を熱する火床。鉄を打つための槌、鉄床。そして、火床の近くで黒ずみ始めた「く」の字の鉄輪。周りの棚にあるのは、鉄瓶や鉄鍋だろうか。どれも取っ手が付いていない。男は弦を打っていたようだ。

 打たなくては。衝動的に男が手にした鎚をもぎ取り、掴んだ鉄輪を赤く焼けた炭にさらした。

 

「話にならん」

四十すぎくらいで低い声の男は、吐き捨てるように言った。

「廃刀令で食い扶持を失った刀鍛冶かなんかなんだろうが、持ったら手が切れるような弦はいらん」

 だが、腕は悪くない。そう言われてから、俺はこの男の元に住み込むことにした。

不思議なことに、この家と、工房での生活に不自由はなかった。何がどこにあるのか、鉄がどんな形をしているのか、鉄がどんな色をしているのかもわかる。

 それからこの家は冬の間、妙に心地よい匂いがする。硬く棘のついた葉と、雪粒のように白い小花をつける、柊の匂い。あの女と同じ匂い。

 男に聞くと、昔この家に住んでいた者の趣味かなにかだろう、と言う。奇妙なことに、男は家の者のことを覚えていないようだった。代々ここで弦鍛冶を営んでおり、親は随分前に亡くしたそうで、それ以外の人間はわからないらしいが、男はが柊の木を大切にしているのもわかった。

 

 家にはごくたまに弦打ちの依頼が来る以外に訪ねてくる者はほとんどいなかった。特に冬になると、この家には俺と男、そして、柊の香りがする女だけになった。

 男は冬になると工房の木戸を開け放つ。いつも、外から女が男を見ている気配がする。女は冬になるとこの家にやってきて、一日中、鉄を打つ男を見て、夕方になるとどこかへ消えた。

 冬の間、男は初めて会った時のように突然倒れこむことがあった。女は、男が倒れたときだけ中に入って、男に息を吹き込んで蘇生させた。それ以外、女が男に近づくことはなかった。男も女に声を掛けることはおろか、木戸開け放つ以外に気にしているそぶりもなかった。

「あの人は私のことがわかりませんから」

 女に尋ねると、それだけが返ってきた。戸口から男を見る女は、眉一つ動かすことはないが、嬉しそうな、それでいて泣きそうな顔をしている、そんな気がしてならない。そのときばかりは目が見えなくてよかったと思う。俺は冬の間、女がそこにいるのを感じるだけでいい。微かに肌をなでる、ほんの少し張り付くようにピンとした冷たい空気。女と混ざり合って艶やかさが加わった柊の甘い香り。男が鉄を打つ音に似た、小さな硬い鈴の音。それだけでいい。

 

 何度か目の冬の終わりがやってきた。あるとき、俺はもうすぐ消えてしまうであろう鈴の音を耳に焼き付けるように聞いていると、いつの間にか女をつける形になってしまった。女はいつものように色を見せない、温度の低い澄んだ声で言った。

「これ以上着いてきたら、殺します」

「あ、いや、すまない。鈴の音を聞いていた」

 女が珍しく、大きく目を開いて驚いた顔を見せた気がした。

「また次の冬が来るまでその鈴が聞けなくなるのが、名残惜しくてな……」

 言ってしばらくすると、甘い香りが近づいた。リン、リンと音が連なり、それに合わせて俺の腰ひもが、くっくっ、と引っ張られる。

「……差し上げます。それほどお好きなら」

「柊の香りも、留めておきたいのだが……」

「……また冬が来たら、花も咲きましょう」

 そう言った女の声には、幾分温度があった気がした。

 

 次の冬の初め、少しだけ雪が降った日に、男が死んだ。女が何度息を吹き込もうと、男は目を覚まさなかった。死に際、男は始めて女に声をかけた。今まですまなかった、と。

 いつものように工房を出ていこうとする女の手を俺は掴んだ。掴んだ手から、女が震えているのが伝わった。抱きしめると、冷たくて、小さくて。それでも、体の奥から熱を発しているように思えた。

 

 冬が過ぎても、女は家に留まった。季節が一巡りして、俺と女の間に子どもができた。

 その頃からこのぼろ屋に、弦を打ってくれと頼みにくる客が増えた。近くに鉄道というものが開通したらしく、それに合わせて、鉄器の需要も増えたのだそうだ。

 一度赤子を連れて、三人で鉄道を見に行った。いつかこれに乗って東京へ行こうと言うと、女から、そうですねと柔らかい声が返ってきた。

 

 その年の冬の終わりに、俺は奇妙な病にかかった。寒くて寒くて、仕方がなかった。どれだけ火をくべても、どれだけ布団をかぶっても、骨の髄まで凍るようだった。

「疲れているだけだ。医者にかかればすぐに」

「それでは治りません」

 女はきっぱりと言い切った。

「私と長くいれば、みな貴方のようになってしまうのです」

そんな馬鹿な、とは口が動かない。

「私は普通の人間ではないのです。私は、死をもたらす、妖……」

「お前は、師匠を助けていたではないか。それに、あの時も俺のことも。お前がいなかったら、俺は……」

「私は、あなたの父を殺しました」

しん、とあたりが静まりかえり、風と、雪が積もる音だけがやけに耳に届く。

「貴方のことも殺そうと思いました。それにあの時言ったはずです。私のことを誰かに漏らせば、殺す、と」

 あまりの静けさに、娘が泣き始めた。多分、女が娘に目をやった。

「でも今ここであなたを殺すことはしません。ただ、今度誰かにこのことを漏らしたら、その時はこの子もろとも、あなたを殺します」

 戸口が開く音がして、差し込んでいるらしい月明かりに、かすかに目の前が白くなった。俺は熱にうなされながらもどうにか立ち上がり、遠ざかる柊の香りを抱きしめた。

「放してください。死にたいのですか」

「俺の命なら、くれてやる。だから、行くな」

 小さな雪の粒が俺たちに降っては、積もらずに消えていく。冷たくて、暖かい白い雪。

「それほど死ぬのがお望みなら、もうすこしだけ、このまま……」

 女の冷たい肌と、俺の熱が交じり合って、お互いの境目がわからなくなってきた。

「鉄道に乗って、三人で東京に行きたかった」

 風が吹いて、腕の中から女の温もりが溶けて消えた。先ほどまでのけだるさと寒気が嘘のように引いた。

 目を開けると、雲の切れ間から、強い光を放つ白い月が見えた。月の光に照らされて、雪の粒が輝いている。俺は腰についた小さな鈴を、リンと鳴らした。

「お前は、嘘が下手だな」

 肩の雪を払う。戸口に足を戻すと、家から柊のほの甘い香りが流れてきた気がした。