「固くて熱くて、空っぽで、やわらかい」

 

「私、なにか匂う?」

 席替えをして三日目の昼休み、北見は思いっきり僕のことを睨みつけて小声でそう言った。僕はすっかり焦ってしまって、北見から必死に視線を反らした。

「手」

 横目でちらりと様子を窺うと、北見は僕の鼻に置いている右手を指さしていた。

「中織君、私が近くにいるといっつも鼻を塞いでる」

 うわ、バレてたんだ。

「なんで? 私、なにか匂う?」

 最初に聞いたことを、北見はもう一回投げてきた。僕はばつが悪くなって鼻から右手をぱ

っと放した。でもそうすると、固くて熱い匂いが鼻から入ってくる。

「べ、べつに。気のせいだよ」

 こっそり鼻の息を止めながら、そっぽを向いて言った。息を止めてるから、音がぺたんこだった。

「…最悪!」

 北見はそう吐き捨てると、嫌なものから目を反らすように体ごと窓の外を向いた。最悪なのはこっちの方だ。僕は口には出さないけれど、心の中でそうつぶやいた。

 

 僕は同じクラスになった半年前から北見が苦手だった。北見は「コワイ」のだ。クラスのリーダーみたいな娘で、真面目とか、正義感が強いとか、そういうのじゃないけれど、妙な迫力があって誰も逆らえない。例え先生が相手でも言いたいことはズバッと言う。男子相手だったらなおさらだ。お父さんが役所のえらい人だから調子に乗ってるなんて言うやつもいるけれど、僕にはそんなことはどうでもよかった。北見は、すごくコワイ匂いがするのだ。母ちゃんが死ぬ前の昔の父ちゃんみたいに、固くて、熱い、そんな匂い。その匂いがする

と、僕は体を縛られたみたいになって何も言えなくなってしまう。

 僕は北見と席が隣同士だけど何も話さない。休み時間も、給食の時も。席替えした次の日、「おはよう」と言ってみたけど、北見は僕の方を見向きもしなかった。僕はちょっとムッと来て、その時から北見には朝の挨拶をしないことに決めた。全然関係ない女子に「中織君はなんで北見さんと話しないの?」なんて言われて、「北見さんかわいそう、中織君最低」と陰口を叩かれる始末だ。僕がその娘たちに何かしたわけじゃないのに。僕はますます意地になって、できるだけ北見と関わる機会がなくなるようにした。教科書を忘れたりして北見と一緒に見るハメにならないように、前の日の夜に忘れ物を確認した。母ちゃんが死んでからはチェックをしなくなって、僕はしょっちゅう忘れ物をしていた。それを自分がやるのは眠くて面倒くさかったけど、北見に教科書を見せてもらうのはそれよりもっと嫌だった。

 

 北見が隣の席に来てから、僕は、なんなんだよ、とか、ふざけんな、とか、言いたくても言えないことをぼそぼそ小さな声で言いながら、一人で家に帰る。僕は自分で思っていることがあっても、ほとんど言わない。言い返そうとすることもあるけど、固くて熱い匂いが怖くて、結局何も言えなくなる。家について、鍵を鞄から取り出す。玄関から入って、居間と、ぼくの部屋。暗い家の中の電灯を点けていく。父ちゃんはずっと家の外にある仕事場にいるから、ただいまと言っても誰も何も返してくれない。僕は冷凍庫から冷凍のチャーハンと唐揚げを取り出してレンジでチンした。最近の父ちゃんは飲み会ばっかりであまり家でご飯を食べないから、テレビを見ながら一人でご飯を食べた。チャーハンと唐揚げは、冷たくて空っぽな匂いがした。この匂いがすると、胸が苦しくなる。でも僕は「匂い」のことを誰にも話さない。二年の時、クラスのみんなにそんなのはウソだって言われたから。父ちゃんも信じてくれない。僕は敵をやっつけるみたいにチャーハンを口の中にかき込んだ。

 

 一週間くらいして、北見は僕といない時でも固くて熱い匂いがしていることに気づいた。休み時間で友達と話した後も、テストで 100点を取ってみんなから誉められた時も、たいてい頬づえをついてつまらなそうに窓の外を見ていた。

 ずるいな、と思った。僕は北見と違ってあんまり友達がいない。スポーツは苦手な方だし、勉強も得意じゃないから、誰かと仲良くなるのがすごく難しい。仲良くなったら、嫌われないように気を使う。けど、北見はそんなこと気にしない。わがままだって遠慮なくバンバン言う。それなのに、どうして北見を心配する人がたくさんいるんだろう。北見は誰のことも心配していないのに。頬づえをついている北見は、そんなものどうでもいい、って言ってるみたいだった。大事なものをたくさん持ってるのに大事に扱わない北見に、僕は胸の奥が固くて熱くなった。

 

 席替えをしてから二週間くらいたって、北見から固くて熱い匂いがしない日があった。その時の北見からは病院に行った時みたいにツンとした匂いがしていた。北見は普段は給食を食べるのがすごく早いのに今日は遅かった。午後の授業になると、北見からのツンとした匂いが強くなった。

「先生。北見さんが体調悪そうです」

 手をあげて言うと、北見がびっくりして僕を見た。保健係の女子が北見を保健室に連れていって、北見はそのまま早退した。次の日、北見は学校に来なかった。

 

 放課後、先生が北見の家にプリントを持って行くよう、僕に言い付けた。プリントを持って行くのは休んだ人の隣の席の人。先生が決めたこのクラスのルールだった。近くの人が届ければいいのに、と思った。

 先生に教えてもらった北見の家は、とても大きかった。家だけなのに、僕のうちの町工場と同じくらいの大きさがある。僕はドキドキしながらインターホンを鳴らした。「はい」とインターホンから女の人の声がした。同じクラスの中織信平です、と言うと、玄関の扉から綺麗な女の人が出てきた。北見のお母さんなんだろう。死んだ僕の母ちゃんよりもずっと若かった。僕がその人にプリントを渡して帰ろうとすると、玄関からパジャマのままの北見が出てきた。

「その人友達。上がってもらって」

 僕はびっくりして目が飛び出しそうになった。

「もう大丈夫なの?」

 と問いかけた女の人に、北見は「平気」とだけ言って家の中に入ってしまった。しぶしぶと招き入れる女の人に、僕もなんとなく居心地が悪いまま、家の中に入った。

 女の人に連れられて、二階の北見の部屋に入る。外からは夕日の赤い光が入ってきて眩しかった。北見は僕の部屋の2倍くらい大きな部屋でベッドに入って、教室でいつもしてるみたいに窓の外をつまらなそうに見ていた。

「若くて綺麗なお母さんだね」

 どうすればいいのかわからなくて、とりあえず頭に浮かんだことを聞いてみた。

「お母さんじゃない、ただの家政婦。うち、お母さんいないから」

 不機嫌そうに言い捨てた北見からは少しだけ固くて熱い匂いがしたけど、その時の僕は鼻を押さえようとは思わなかった。

「今日は鼻押さえないんだ」

 僕が黙って下を向いていると、いつの間にか北見が僕をじっと見ていた。

「調子悪いの、なんでわかったの。隠して我慢してたのに」

 僕は、北見の質問にドキリとした。答えないでいると、北見は黙ったままずっと僕のことを見ていた。匂いのことを言うのは嫌だった。匂いで心が分かるだなんて、誰も信じてくれるわけがない。ふとその時、北見から固くて熱い匂いに混じって、冷たい空っぽな匂いがすることに気がついた。なんでだかわからないけれど、その時僕は北見にだったら話してもいいかもしれないと思った。信じてくれなくてもいいけど、と前置きして、僕は匂いのことを話した。北見からは、昔の父ちゃんみたいに固くて熱い匂いがすることも。

「なんでお父さんの匂いが嫌なの」

「母ちゃんが死ぬ前の父ちゃんは、ずっとイライラしてて、いつも怖かったから」

 北見は僕の話を聞き終わると、また窓の外を見た。真っ赤な夕焼けが広がった窓に向かって「じゃあ、今の私の気持ちも分かる?」と聞いてきた。僕はちょっと迷ってから

「冷たくて空っぽな匂いがする」

 と言った。北見が「えっ」とこっちを向いた。

「寒い日に一人で薄暗い森の中にいるみたいな、僕が一人で夜ご飯を食べてる時と同じ匂いがする」

 北見はじっと僕を見た後「わけわかんない」とそっぽを向き、もう帰って、と言っ

た。固くて熱い匂いはしないけど、口調が怒ってるみたいだった。上がってと言うから上がったのに、いきなり帰れと言う。わけがわからないまま部屋を出る前に、窓に顔を向けっぱなしの北見に言った。

「みんなには言わないでね。変な奴だと思われるから」

 外を見たまま何も言わない北見に、僕は後ろ手に扉を閉めて「わかるわけないよね」とつぶやいた。北見の部屋から見えた夕焼けはもう見えなくなって、僕は薄暗くて知らない道をいつもみたいに一人で家に帰った。

 

 次の日北見は教室に来ると、僕に「おはよう」と言って席に座った。僕はびっくりして北見の方を見た。何食わぬ顔で鞄から教科書を机の中に入れながら、北見はぽかんと口を開けたままの僕に「今日は鼻、押さえなくていいの?」と言った。僕ははっとした。そういえば、今日の北見からは固くて熱い、いつものコワイ匂いがしない。

「北見は昨日の話、信じてくれるの?」

 僕はおずおずしながらそう聞くと北見は、どうだろうね、とよくわからない言い方をした。曖昧な言い方に戸惑う僕に北見が、でも、と付け足した。

「私が言わなくても、みんなもう中織君のことは変な奴だと思ってるよ」

「え、うそ、そうなの?」

 驚いた顔の僕に、北見は「そうだよ」と、ふっと、ほんとにふっとほんの小さく笑った。その時の北見からはちょっとだけ柔らかくて、暖かい匂いがした。