「楽園を探して」

 

 

アントニ・ガウディ・イ・クルネット:1852年生、1926年没

 

序章「彼が求めていたものを求めて」

 

 6月12日。土曜日、午後。この時期にしては、ひどく寒い日だった。「葬儀は質素に」というのが彼の願いだったが、喪服に身を包んだ人々が埋め尽くす沿道を見ると、神はその望みを聞き入れなかったらしい。

 彼の葬列が大聖堂に到着し、地下の礼拝堂へ降りていく。最後尾からオルフェオ・カタラー合唱団が歌い始めた。トマス・ビクトリア、『死者のためのミサ』から『レスポンソリウム』。合唱団が「我を赦したまえ」と澄んだ歌声を発する。赦すとは、何を赦すのだろうか。彼は何か罪を犯したのか。

 私は、いやぼくは、思わず問いかける。出会ってからもう20年以上経つのにふと彼のことを思う時、ぼくの時間はいつも出会った頃に戻ってしまう。彼の作った建物がただの建築物ではなく、神の使いが現した建造物であると言われ始めた頃。ぼくはその頃から彼を間近で見ていた。けれど、ぼくは彼のことがずっとわからないでいる。何を求めていていたのか、それを叶えたのか。

「ジョジール、自分で答えを見つけたまえ」

 どこからかそんな声が聞こえた気がした。彼はいつも答えをくれなかった。

ぼくがずっと抱いていたこの疑問は、彼が遺した最後の問いかけだ。

 葬儀の続く礼拝堂から抜け出して、大聖堂を見上げる。4本の石でできた無骨でありながら元々この場所に生えていたようにも思えるファザード。唯一彼の生前に完成したベルナベの塔が、ぼくには空への架け橋に見えた。

 

第一章「聖人もしくは人でなし」

 

「罰が当たったのね」

 通りに佇んでいると、小さく、しかし鋭い言葉を拾って、ぼくはゆっくりと振り返る。整った顔立ちではあるものの刺すような目を隠そうともせず、ペラ・ミラ夫人のルゼ・サジモンが喪服に身を包んで立っていた。

「来ておられたのですか」

「私が葬儀に参列してはいけないかしら?」

 相変わらずの強気な物言いに苦笑いしか浮かばない。師と仲が悪かったということを差し置いても、ぼくはこの夫人が苦手だ。

「これほどの称賛を浴びたとしても、目に見えない罪はあったんでしょうね」

 道路を埋め尽くす葬列を見ながら、サジモンは含みを持たせるように言った。

「まあ、師を恨みに思う人はたくさんいたでしょうね。功績や才能を妬んだ人も、偏屈さに実害を被った人も」

「私は後者代表、とでも言いたそうね」

 『彼と付き合う者は、殺したくなるか、降参してただ従うか、そのどちらかしかない』という評価を否定するつもりはない。実際に彼は独善で、好戦的で、尊大に過ぎると言われていたし、そういう場面を見たことがないわけではない。

「聖人だ、なんて言われることもあるようだけれど、結構ヒドイことをしていたという噂もあるわよね。弟子が設計した建築に、自分の署名を入れたり」

「バランゲー氏の事を言っているのですか。彼には正式な建築家の資格がなかった。だから、資格を持った者が代理で署名をしたに過ぎません」

「助手を奴隷のように扱った、とも聞くわ。工事をしている現場に馬車で乗りつけて、降りもせずに偉そうに指図して、気に入らなければできあがったものでも取り壊しを命じた、とか」

「彼が完璧主義であることはあなたも知っての通りでしょうけれど、少なくともぼくはあの人が現場で気取った態度を取っているのを見たことがありません。馬車から降りないどころか進んで作業に加わる姿は、あなたも見ているはずですよ、ドニャ・ロサリオ」

「そうだな、ジョジールの言う通りだ」

 ぼくらの会話に、ペラ・ミラが割り込んできた。

「ロサリオ。今日くらい死者を冒涜するのは止めておかないか」

 サジモンは夫を一瞥すると、フンッ、と鼻を鳴らして歩いていってしまった。

妻の去っていく方に目を向けながら、ミラは気弱そうな笑いを浮かべる。

「すまないな。あれでも、本当は悲しんでいるんだ。昔からのケンカ友達が減るというは寂しいものだからね」

 彼の目線を追って不機嫌そうに歩いていくサジモンへ目を向ける。師と彼女は同郷の出身で、幼い頃から交流があったと聞く。そういえば師と彼女の言い争いは壮絶ではあったが、どこか楽しんでいるところがあった。

「ただ、彼女が彼を悪く言うのもわかる。私自身も彼から相当やっかいごとをもらったクチだ。悲劇の一週間を差し置いたとしても、ね」

 それを言われると、ぐうの音も出ない。確かにこの人の依頼で建物を作っていた時は、役所から苦情のオンパレードだった。対処するのは相当の苦労だっただろうし、違反金も馬鹿にならなかったはずだ。ついでに師はとある事情から途中で仕事を放棄し、支払いを巡って裁判までしている。社会的な圧力があったことを抜きにしても、恨みを持たれてもおかしくはない。

「ただ、そのやっかいごとを十二分に補うものを彼から受け取ったと思っているよ。今や、我がカザ・ミラを知らぬ者はバルセロナ、いや、スペイン中を探してもいないほどだからね。彼の死を悼む者がこれだけいるということが、彼の業績を証明している、そうだろう?」

 ペラ・ミラは妻と同じように未だに道路を埋めている葬列を見渡すと、軽く手をあげて足早に妻の元へ駆けていく。

 そう、彼は本当に偉大な人物だった。カザ・ミラだけではない。このバルセロナには、彼の自伝ともいえるものがそこかしこに鎮座している。気難しく尊大で、偏屈でそして、天才。後年は聖堂の建築のみに尽くし、静謐な生活を送っていたことから神の御使いと評する人もいる。

 ただ、今ぼくの周りで彼の死を悼む人のどれほどが、彼が何を求めて生きていたのか理解しているだろうか。ミラ夫妻が去っていた方を見詰めると、ぼくの視界に大きな、白くて濃い雲が映った。

 

第二章「変なおじさん」

 

 先客がいるとは思わなかった。タイルが散りばめられた擁壁を横目に、ドラゴンが這う正面階段を上がって、ドーリス式列柱の脇を通り抜ける。ギリシャ劇場と呼ばれている広場に登ると、周辺部に備わった波打つベンチに壮年の女性が座っていた。

「いいんですの、あの人を見送らなくても?」

 ここ、グエイ公園の広場からは、市街が一望できる。イザベル・グエイはバルセロナの街並みから視線をこちらへと向き直した。

「そう言うあなたはどうなんです、ドニャ・イザベル」

「ここにくれば叔父さまに会えるかも、なんて言ったら笑いますか?」

 アウゼビ・グエイの娘はそう言って広場の脇に目をやる。

「笑いませんよ」

 ぼくも彼女と同じ方向に視線を向けた。薄い赤茶色の壁をした、彼の家。ここ半年ほど前に師はこの家を引き払い、サグラダ・ファミリアで寝泊まりをしていたわけだから、彼がここにいないことは明白だ。ただ、このベンチに座っていれば、あそこのドアが開いて、いつものように彼がのっそりと出てくるのではないか。そう思ったのは、ぼくだけではなかったようだ。

「もう10年以上経つのですね。この公園ができてから」

 イザベルはベンチから腰を上げて、辺りをぐるりと見渡し、目を閉じた。

「こうしていると、お父さまと叔父さまが公園を作るために話をしているのが昨日のことのように浮かんでくるのに」

 ぼくも彼女にならって、目を閉じる。議論を交わす師とグエイ。建築家とパトロン、表面を捉えればそれだけかもしれない。ただ、その奥には深いものがあった。グエイは資金を提供するだけではなく、彼の表現を最大限に引き出すよう励まし、彼を賞賛した。彼もその期待に応えるように、内側から溢れ出すものを余すことなく形にしていった。枠にとらわれない性格が似通っていたこともある。実は兄弟だ、と言っても誰も疑わなかっただろう。

「本当に、変な人でした」

 目を開けると、イザベルはまたベンチに座っていた。

「叔父さまがうちのお屋敷を改修したでしょう。そうしたら、客間にグランドピアノが入らなくなってしまったんです。せっかくお父さまがプレゼントしてくれたのに。それで落ち込んでいたら、叔父さま、なんて言ったと思います?『ピアノが弾けないのなら、バイオリンを弾けばいい』ですよ。そういう問題じゃないのに、叔父さまは音が出せればいいと思ったんでしょうね」

「あなたが奏でるならなんでもよかったんですよ。ピアノでもバイオリンでも」

「失礼しちゃう。叔父さまにとっては、いつまでたっても私は子どもなのね。

甘いプディングを与えれば喜ぶと思っていたし」

 どこかズレてるんです、イザベルは拗ねた少女のように唇を尖らせた。

 多くの人は師を気難しい隠遁者と認識している。しかしそれに反して、彼には本当の家族のように接していた友人がたくさんいた。イザベルはその筆頭だ。

「彼はあなたを本当の娘同然に思っていましたよ」

 そうですね、と呟いて、イザベルの視線がサグラダ・ファミリアに向く。彼女は遠い記憶を巡るように、大聖堂を見つめていた。

「トボケてて、やさしくて。けれど、いつも寂しそうな目をしていました」

 はっとして、イザベルを見る。

「叔父さまはいつも…何を見ていたんでしょうね」

 サグラダ・ファミリアを見つめながら、イザベルが立ち上がる。6月だというのに今日は冷えますね、そう言い残して彼女は広場の階段を下っていった。

 彼は、いつも…。彼がふとした時に見せる、遠く届かない何かを見つめる顔が脳裏に浮かんで、ぼくは空を見上げた。

 

第三章「目の上のたんこぶ」

 

 グエイ公園の広場からサン・パウ病院が目に入った。誰もいないグエイ公園を後にして、なぜかぼくはふらふらと病院がある方へ歩いていく。

「どうした。糸の切れた凧のような顔をして?」

 声に振り向く。いぶかしげな目線でペラ・モンタネーが立っていた。

「随分ひどい顔をしているな。父を亡くした時の私のようだ」

 バルセロナ建築家の頂点に立ったと言われる彼の父、ドメネク・モンタネーが亡くなったのは3年前だ。あの時のペラと同じ顔なら、相当ひどい。

「まあ、仕方がない。お前にとって父を亡くしたにも等しいだろうからな」

 父。その表現に、イザベルの寂しげな表情が甦る。

「ただ、私としては幾分胸中が複雑だ。父はガウディが嫌いだったし、私もその影響を受けていないとは言い難い」

 そうだろうね、と苦笑を返す。こういうときは師の日頃の行いを恨みに思う。

ペラの視線の先にある大聖堂、降誕のファザードがぼくらを見降ろしている。

「父は、サグラダ・ファミリアに立ち向かうようにこの病院を造っていた」

 背後に向かうペラの視線を追う。大聖堂から伸びる道路を辿ると、サン・パウ病院の本館に行き着く。サグラダ・ファミリアの鍾乳洞のような荒々しい質感とは真逆の、すらりとしながらも威厳のある病院の正門が大聖堂を睨みつけているように思えた。確かサン・パウ病院の敷地全体をまとめる対角線の軸は、サグラダ・ファミリアに向いている。

「君の父が負けず嫌いなのは知ってたけど、どうしてそこまでガウディ師にこだわったの? ドン・ドメネクは、建築界だけではなくて、政界にも出ていた人だ。師とは比べようもないほど名声も地位もあったじゃないか」

「だから、さ。父がひたすら求めていたものには目もくれず、表現することだけに人生すべてをかける。そんな得体の知れない者が自分よりも優れた建築を次々と生み出していくのは、脅威でしかなかったろう」

 目もくれない、というのは正確ではない。師は一時期ブルジョアに染まっていた時もあった。染まっていた、というより、建築家という職業上そうなってしまったのだろう。しかし、師にとって社交の場やら、堅苦しい空気感などは相当息詰まるものだったようで、ぼくが出会った頃、彼は一部の友人を覗いた上流階級とは一線を引いていた。彼が、ただの建築ではなく、宗教的な建物を数多く手がけていたことも関係しているのかもしれない。

「人間が決めた価値観や役割の優劣なんて下らない、って思ったんだ。だから師は一度手に入れた立場を手放した」

「社会的な栄誉すら建築のために昇華したといったところか。表現の権化だな」

 サグラダ・ファミリアとサン・パウ病院、ガウディ師とドン・ドメネク。この二つの建物には、二人の違いがはっきりと表れている。外観も、それから、建てるための姿勢にも。もうずいぶん前から、この社会には不況の渦が巻いている。20年前、建築に贅の限りを尽くせたのは言わば最後の残り火だった。ドン・ドメネクは、サン・パウ病院のために自らの立場を最大限活用して建設費用をかき集めることができたが、1910年代後半には師に資金を提供するパトロンはいなくなり、サグラダ・ファミリア建築のために自ら献金を求めて奔走していた。ハングリーさの違いが、彼らを決定的に分けたのだ。

「しかし、ガウディという化け物がいたからこそ、父は世界にも誇れるこの病院を造ることができたとも言える。不思議な男だったな、ガウディというのは。己が燃えるだけではなく、周りの者にも火をつけてしまう」

 ぼくも火をつけられた一人だ。だから今こんなところにいる。

「私はそろそろいくぞ。父ほどではないにしても、私もやることがあるのでな」

 足を踏み出したペラに、ぼくは問いかけた。

「ドン・ドメネクはガウディ師に対抗して、何かを得ることができたのかな?」

 ペラは振り向いて思い出すように空を見ると、何を得たかはわからんが、と前置きして、死に顔は満足そうだった、と言った。

「神の建築家に対抗していた父は、楽しそうだったな」

 そう言い捨てたペラの背中が遠ざかる。満足。ガウディ師の死に顔は、満足そうだっただろうか。ぼくの頭の中には靄がかかっていて、よくわからない。

 

第四章「全てを見通す者」

 

 気がつくと、ぼくはプロバンサ通りのとある一角に立っていた。見上げると、波打つ巨大な岩の壁が視界いっぱいに飛び込んでくる。「石切り場」カザ・ミラだ。ミラ夫妻はもう戻っているのだろう。荒々しくもどこか柔らかそうな石壁の窓から明かりが漏れている。

「こんなところで何をしている」

 トゲのある口調に考え事を中断されて、思わず睨み返す。ルビオ・ベイベル。ガウディ師と最も親交があったコラボレーターの一人。

「先生の葬儀をほったらかして散歩とは、相変わらず勝手な奴だ」

 その物言いにカチンと来る。この男とはどうも反りが合わない。

「ええ、勝手です。でも、勝手さで言えばガウディ師の方が勝手ですよ。自分の構想が通らないからって、ここの仕事を投げ出すんだから」

 師はカザ・ミラを、施主ルゼ、ロサリオの名前と関連付け、聖母マリアに対する献身の意志そのものを現そうとした。

 1909年7月、バルセロナで「悲劇の一週間」と呼ばれる労働者層の暴動が発生。その矛先は教会関連施設へと向かった。教会は労働者を搾取するブルジョアを支援する立場にある、とされたから。この事件を受け、カザ・ミラの施主ルゼ・サジモンは聖母マリア像の設置を拒否した。

「先生は建築に神への信仰が込めていたことはお前にだって分かっていたはずだ。それに先生が仕事を放棄したおかげで、お前がここを完成させることができた」

 またカチンと来る。確かに師の仕事を継いだ後は、ぼくが表現したかったものを存分に注ぎ込んた。だが、それは師が仕事を放棄した後のカザ・ミラに限ったことではない。彼は自身の建築に、宗教観、自然造詣、死生観、人生の苦しみ、理想、あらゆるものを投影させていたが彼のそれは独善的な自己投影ではなく、パトロンであるグエイの思想、社会が持つ不安や希望、そしてコラボレーターたちの才覚や意見をも手放しで取り入れられたものだった。

「カザ・バトリョにも、グエイ公園にも、クルニア・グエイ地下聖堂も、そもそも全てのガウディ建築には誰かの意志や彼以外の技術が入り込んでいます。

師が求めたものは、厳密には『ガウディ建築』ではないんじゃないですか」

「それは違うな。先生は、社会や自然といった環境だけではなく、我々がどのような物を作るか、どんな要素を取り入れるか、全てを織り込んだ上で設計をしていた。ガウディ建築は、全てガウディ建築だよ」

「そんな、師は全てを見通していたとでも…?」

「そうだ。先生は自身に足りないものを補うかのようにコラボレーターを置いていた。製図はバランゲー、石膏模型はマタマラ、色彩はお前。もしかしたら、グエイすらも、資金調達のコラボレーターとして捉えていたのかもしれない」

 バカなとは思うが、師は何もない場所から構想を突き詰めて、設計図もなしに建物を作りあげてしまう。彼自身が全ての資源を把握していたとすれば、ルビオの言葉に、うなずけないこともない。

「だからこそグエイ公園も、このカザ・ミラも、クルニア・グエイも、お前に多くを任せたんだろう。私よりも才能があったお前に」

 私ではなくて、という言葉を呑みこんだような気がした。ルビオは、ブルゼラ病に感染して死線を彷徨った時に、遺言執行人に指名されているほどで、ガウディ師の繋がりはぼくよりも深かったはずだ。

「あなたはいつもガウディ師の傍にいました」

「物理的な距離は近かったのかもしれん。だが、自身の表現を追い求めるのが先生の最大の望みであったならば、先生にない部分を補ったお前の方が、求めていたものに近かったはずだ。私といる時のあの人はいつも遠い目をしていた」

 そう言ってルビオは自嘲気味に笑みを浮かべた。遠い目。多分それはイザベルが見ていたものと同じ。いや、彼らだけではない。師が息子のように可愛がっていた近所のアルフォンスも、親しい詩人のジュアン・マラガイも、彼の右腕として仕えていたバランゲーも、もしかしたらアウゼビ・グエイも、ガウディ師のあの眼差しを見ていた。

「ガウディ師は、何を見ていたのでしょうか」

 問いかける。ルビオはまるで師の眼差しを受け継いだように遠くを見つめる。

「それを問うて、お前は今更どうするつもりだ?」

 そう言い残して、ルビオはぼくに背を向けた。

 

第五章「楽園を作りし神の使い」

 

 彼のことを探していると、結局ここにきてしまう。大聖堂、サグラダ・ファミリア。マリアとヨセフとイエス。聖家族の物語が描かれる予定の、降誕のファザードを見上げる。これだけ存在感があるのに、悲劇の一週間の中でも大聖堂は襲撃を受けず、その後にも労働者の集会や祭が行われた。ここは、聖家族に捧げるものであると同時に、労働者たちにとっての理想郷になるはずだった。

 悲劇の一週間で、師は現した宗教建築が実は多くの人を苦しめていたのではないかと嘆くようになった。そしてその翌年からまるで神に奪われるように、彼を物的、心的に支えていた親しい人を次々を失ってから、彼は建築に「贖罪」を現すようになった。それは、労働者から搾取した物を己の建築のために浪費してしまったことへの赦しか、それとも、親しい人々を失ってなお、自分は建築のために長々と生きながらえていることへの罪悪感がそうさせたのか。

 友を失い、資金を失い、サグラダ・ファミリア以外の仕事を失った、いや手放した師は、その後の人生全てを捧げるようにこの教会の建設に没頭した。今でこそ建造する資金にすら困窮し、誰かを雇う余裕などないものの、1910年代には高齢の職人が飲み水を運んだり、農夫が作業をしたり、ピクニックにきた家族連れが、修道院の職人たちに飲み物を振舞ったり、師が理想としていた教会を中心とした労働者たちのコミュニティができていた。

 聖堂に入ると見知った顔が何人かあったが、構わず地下の礼拝堂に向かう。

葬儀はもう終わっていて、がらんとした空間があるだけだった。

「ここで何をしている?」

 息が止まる。物事を深くまで見通すような目。下世話に見えて、高貴な空気感。細身でありながら、壮大さをまとった男が立っていた。

「会うのは初めてではないよな、ジュゼップ・ジョジール」

「…エドワルド・トダ?」

 この元外交官と会ったことはあるが話をするのは初めてだ。顔つきも体つきも違うのに、どことなく師と雰囲気がかぶるのは、幼馴染という関係性からか。

「探しものでもしているのか、何を求めている?」

「…ガウディ師が、求めていたものです」

「それなら、このサグラダ・ファミリアそのものが答えじゃないか。聖家族にに捧げる建築、労働者たちのコミュニティ、そして生を賭すための建造物。全てアントニが求めて止まなかったものだ」

 師は、建築家であると同時に熱心な宗教家だ。地位も名誉も、自身の生活すら手放したことで、彼は静謐な神の使いとして、この大聖堂に向き合った。それは単なる自己満足ではなく、苦しむ労働階級者のため、という意味合いもあった。彼自身、生まれが労働階級だ。一時期はブルジョア層に身を置いたものの、そこを離れたのは上流階級の空気感が窮屈だっただけではなく、彼の根幹には一人の労働者という立場があったからか。そして、彼は家族を求めていた。コミュニティの原点は、家族だ。確かに師は、聖家族にこだわるようなところ

があった。早くに家族を亡くし、生涯独身だった彼は、自身が持つはずだったであろう家族の代償として聖家族を求めていたとも言える。

 だとすると、彼は彼が望む全てを手に入れたはずだ。サグラダ・ファミリア、そこに集まる労働者やコラボレーターたち、聖家族誕生を描く降誕のファザード。全て彼が欲していたものだ。師は、自分の手でそれら全てを現出させた。

「なのに、どうして彼はいつも遠くを見つめていたのでしょう」

「最初から、全て得ることができないものだとわかっていたからじゃないか」

 トダはぼくの元に歩み寄る。

「サグラダ・ファミリアで形になっているのは、3つのファザードのうち一つだけ。全てが完成するのは、いったい何百年後だ? 不況が訪れて、労働者の暮らしはますます困窮している。彼らが満足のいく生活を送れる時代が来るのはいったいいつになる? そして、まあこれは人付き合いを避けていたあいつ自身のせいでもあるが、アントニが家族を持つことはなかった。お前と出会うずっと前から、アントニにはそれがわかっていただろう」

「そんな…だったら、結局ガウディ師は、何も得ることができなかったということになってしまう」

「いや、あいつは全てを手に入れたさ。これから手に入れる、と言った方がいいか」

 トダは、天井を見上げた。師と同じ、遠い遠い何かを見つめるように。

「ジョジール、一緒にタラゴナに来ないか」

 トダがぼくに、1869. 9.25と日付の入った薄い冊子を手渡した。稚拙なイラストが混じったその古い書物は『プブレー手稿』と題されていた。

 

終章「理想郷を継ぐ者」

 

 青く穏やかな海と、鬱陶しいほどの緑を映えさえた山並みにところどころ打ち捨てられた遺跡が混じり込む。数年でがらりと変わるバルセロナと違い、ここは私が知っている景色からほとんど変わっていない。

 タラゴナ。私の生まれ故郷、そして初等教育時の師やトダの遊び場でもある。

 トダに連れられた私は、山間の道を抜けて、とある修道院にたどり着いた。

 ガウディ師たちは少年時代、廃墟になったプブレー修道院を建て直し、コミュニティを作るためのビジネスを興そうとしていたそうだ。観光名所を造り、旅館や学校を建て、生計を立てるための農産物作りまで。『プブレー手稿』には、それを実現するための要素が荒いながらも細かく綴られていた。

「この修道院は、私たちが子供の頃に立てた計画を元に修復をしている」

 エスコルナルボウ修道院。トダが買い取り、昨年改修が終わったのだという。

「ここの修復には、アントニから多くの助言をもらっている。幼い頃の我々の夢を、私が受け継いだ。プブレーも現在修復中だ」

「受け、継ぐ?」

「そうだ。サグラダ・ファミリアも同じようにあいつの意志を継いで完成させようと考えている奴がいるはずだ。あれが完成するのはいつになるか、そのころの世界はどんな風に変わっているのか想像もつかんが、少なくともあいつの馬鹿げた構想が形になるということだ、そうそう捨てた時代でもないだろう。芸術と労働を基盤にした社会なんてものができていてもおかしくはない」

 ルビオが言った。師は全てを見通していた、と。それは、彼の周りにある資源や、それらを集めて造る建築の構想だけでもなく、彼が去った後の未来をも。

「私はアントニの死に顔を見て、やられた、と思ったよ。誰かが思いを受け継いで、いずれは自分の理想を全て叶える、そう確信していた顔だった」

「…勝手ですね、ガウディ師は」

 遠くに見える海の青が、急に鮮やかになったように思えた。

「昔からだよ、アントニが勝手なのは。外交官の任務を放っぽり出して、遺跡の発掘に明け暮れていた私なんぞ、あいつに比べたら可愛いもんだ」

 ペラの言葉を思い出す。「周りに火をつける」というのじゃ足りない。なにせ、生き残った者に、もっと言うならばこれから生まれてくる次の世代に、彼は自分の仕事を押しつけてしまうくらいだ。本当に困った人だ。

「それで、お前はアントニから何を受け継いだんだ?」

 トダが私に問いかける。

「そうですね、私は…」

 彼の原点は、トダに持って行かれてしまった。ルビオだけではなく、サグラダ・ファミリアの工員たちにも私は睨まれているから、あそこにも長くはいられない。だとすると…。

 そんなことを考えていると、私の頭には婚約者のテレサの顔が浮かんだ。

 

 1927年:ジュゼップ・ジョジール結婚。後年、3人の子供をもうける

 1930年:エドワルド・トダ、プブレー修道院再建工事を開始

 2026年:サグラダ・ファミリア完成予定