生まれた星、というのがあるのなら、ぼくは悪い部類に入るだろう。送られてきた画像には、覚えのある顔が写っていた。古くからの馴染みで、もう十年以上前、初めて戦場に出た時も同じ隊にいた。
「蛭田は、その、戦場で……漏らしたこととか、あるのだろうか?」
「え?」
端末から顔を上げる。ここは、隊の宿舎で、ぼくの部屋だ。
「いや、変なことを聞くのだけれど……君は実戦経験があるんだろう。そういうことってあるのかなあ、と」
バディを組んでいる大高三尉がもごもごと言う。いきなり何を言い出すのだろう、とは思いながらも答えを返す。
「あ、ああ。そうですね……みんな言わないけれど、普通ですよ。ぼくの知り合いでも、初陣でおっきい方を漏らしたやつがいますし」
確か、今しがた送られてきた画像の人物もそうだったことを思い出す。
「昔、ぼくがいた隊の教官が酔っ払ったとkに言ってました。『腹ン中に入っている邪魔なものは、生きるために放り出される。動物の身体はそんなふうにできてる。だから戦場で漏らすのは普通のことだ、気にするな』、って」
「なるほど、確かに理屈としては納得する」
大高三尉が腕を組んで神妙な顔つきでうなづいた。
「大高さん、戦場で漏らしたりしたんですか?」
この人が戦闘に関わる話をするのは珍しい。ここの隊は形としては軍隊ではあるが、実戦を経験することは実質皆無だ。
「ああ……いや、どうだろうな」
頭を掻きながら、急に変なことを聞いて悪かったね、と言うと大高三尉は椅子から立った。
「大高さん」
出て行こうとするところに声をかける。
「ん?」
「大高さんは、夢とかあります?」
彼の話が唐突だったので、こちらも唐突に聞いてしまう。大高三尉は、なんだよ急に、とは言いながら、うーん、と、また腕を組んで天井を見上げた。
「……特にはないかな」
「そうですか」
おやすみ、と言って彼が部屋から出て行く。もう一度、端末に送られてきた画像を見る。最後に会ってから、五年以上は経っている。面影はもちろんあるが、全体的に少しやつれた気がする。彼は、たぶん何か夢を持っていたり、志があったりするのだろう。ただそれは、誰かにとっては脅威となる夢で、ぼくは彼を殺さなくてはならない。
ぼくが所属している中央防壁警備隊、通称「長城警備隊」の役割は、この国を東西に分断している壁の警護だ。一応、国の機関ではある。しかしながら、「長城」は山の中を走っていて、辺境の地にある長大な壁をどうにかしようとするもの好きはいない。まあ、物理的に破壊することはできるだろうけれど、壁の向こうは高濃度の放射能で汚染されていて、人が住めない環境が広がっているだけなので、わざわざそんなところに行きたがる者もいない。壁の内側には人がいないので、入ってくるものもいない。壁ができた直後の一世紀前は分からない。けれど、ここ数十年と、そしてこれからは、この境界線を行き来する者はいない、というのが実情だ。
なぜいまだに行き来のない壁を警護する部隊があるのか、と言えばただの惰性だ。業務の中に戦闘訓練は含まれているが、この部隊で実戦を経験することは想定されておらず、隊の人間で実戦経験がある方が珍しい。そんな仕事だからだろう、死なない程度の衣食住は支給されるが、給金は雀の涙で、この隊の人間はたいがい兼業軍人である。ただ壁の回りを警護しているだけで、機密情報に触れることはないのため、副業に関してはかなり緩い。
さっきまでいた大高三尉は医学研究者だし、畑仕事をしているものや、中には絵描きがいたりもする。ぼくも例外ではない。
時計を見ると、まだ九時を回ったところだ。机の棚から、休暇届を取り出して必要事項を記入する。書類を持って部屋を出る。責任者も同じ宿舎に住んでいるので、こういう時には都合がいい。ぼくの部屋がある一階から三階まで上がって、扉の前に立つ。ノックをするとしわがれた声が返ってきて、ぼくはノブを捻る。
「失礼します」
部屋に入ると、かすかにアルコールの臭いがする。部屋の真ん中にあるテーブルの上に、いつもの焼酎瓶と、液体がなみなみと注がれたグラスが乗っている。胴部に丸みを帯びたロックグラスで、表面が波を打っている。握ると手になじむのだろう。香りを楽しむための構造なのか、口はつぼんでいる。氷は入っていない。
「蛭田、こんな夜中に何の用だ?」
じろりと部屋の主、占部三佐がテーブルに、これもまたいつもように足を投げ出して座ったまま、不機嫌そうにぼくを睨めつけた。
「夜中って、まだ九時過ぎですよ。いい子じゃあるまいし」
肩をすくめながら言ってやる。始めは若干戸惑ったものだが、彼の人相、目つき、態度もろもろが悪いのと、中身があまり関連していないことを認識していれば射すくめるような眼差しを当てられても気にする必要はない。酒の神、バッカスの通り名を持つものの、実は彼が下戸であることは周知の事実だ。
「今日は夜勤でもないだろう。電気の無駄だ。日が暮れたらさっさと寝てしまえ」
「これが受理されたら寝ることにしますよ」
さきほど書き付けた紙っぺらを差し出す。彼はそれを受け取ると、テーブルに上げてあった足を下した。
ただの休暇届だ。申請期間以外には理由を書く欄はあるが「私用」としか書いていない。
「今回はどのあたりに行くんだ?」
申請を出して、ダメだ、と言われたことは一度もない。まあ、休暇期間中は給料が出なというのもあるし、そもそもこの仕事は必要ないことなのだから休みを取られようが問題はない。ただ彼はいつも行く先については訊いてきて、ぼくは特に秘匿することでもないので答えている。
「今回は長岡地区の方ですね」
「そうか」
占部三佐が承認の欄に印鑑をぽんと押して、書類ケースに投げ入れる。
「あの辺りはこのところ物騒だからな。延長は認めんから、ちゃんと申し入れ通りの期間で帰って来い。それからいつも通り、備品の持ち出しは不可だ」
「分かってますよ」
右手をひらひらとさせて、上官の部屋を後にする。
彼には、というか、隊の人間にはぼくがどのような副業をしているかをはっきりと言ったことはない。傭兵のようなことをしていると言っている。それ以上のことは話すつもりもないし、話したこともない。
長岡地区は、この国において特殊な位置づけにある。一〇〇年前に建設された長城は、小田原から甲府を通り、長野、上越とこの国を縦断している形になるが、日本海に面する側は長城の形状がだいぶあいまいで、いまだにフェンスが張られているだけ、といったところもある。新潟地区は日本の東側という位置づけではあるが、長城を作ることになったおおもとの原因である関東・東北の大震災で過酷災害を引き起こした福島地区の原子力発電所からは直線距離では三〇〇キロ圏内に入っているものの、地形や天候面で実質、汚染区域からは外れている。そのため、汚染防止線の境界があやふやで、壁の内側ではあるが、人が自由に出入りしている。
上越地区にも警備部隊があるにはあるが、東西の境界線そのものは「汚染防止」という名目から遠いためほとんど注意を払っていないらしい。加えて、独自の自治体制をひいている長岡地区は政府からも睨まれていて、このところは安定しているものの、長岡地区の自治体と政府側とでたびたび小競り合いが起こる場所だ。実戦経験のない長城警備隊は出る幕がない。
(何のための長城警備隊なんだか)
誰にというでもなく、いつものように浮かんでくる疑問を浮かんだままにして自室に戻る。
休暇は二日間。必要な情報は端末に送られてくるから、仕事は一日あれば終わる。移動も含めて二日あれば事は住む。長岡へはバイクで数時間。可能な限り身軽なほうがいいので、荷物は最低限のものに留める。着替えと、拳銃、ナイフ、それから念のためグレネードがいくつか。それから双眼鏡。
必要なものを引っ張り出していると、ふと壁に掛けたガリルが目に留まる。持つと、皮膚に吸い付くように馴染む。馴染み過ぎて、馴染んでいなかった時のことを思い出せないくらい。
昔、初めて戦場に出た時のライフルだ。長城警備隊では、古ぼけた八九式小銃が支給されているし、副業の時も長物はあまり使わないけれど、整備を欠かしたことはなく、今でも十分に使える。特に思い入れがあるわけではない。ただ手放すこともなく、壊れないから使っているだけだ。
次の日の早朝、バイクにエンジンをかけて、北へ向ける。占部三佐があの辺りは物騒だと言ったが、この国では物騒ではない場所の方が少ないのだ。
山道を走っていると、たまに山賊なんかに出くわすが、今回は何事もなく長岡地区の境界にさしかかる。自治体によっては、出入りを厳しく規制しているところもあるけれど、長岡は良くも悪くも様々なものが流れてくる場所の一つで、そのあたりは適当だ。南側に隣接している金沢地区との境界は警備が厳しいが、東側からは人がほとんど立ち入らないために、境界の警備はあったが、適当にこしらえた身分証を提示しただけで、出入りにさしたる苦労はなかった。長岡の市街まで行って、バイクを適当に停める。目的の人物は長岡市内の街中にいる。
「蛭田?」
ただまさか、すぐに探している人物から唐突に声を掛けられるのは想定外だった。
「柏木」
こちらも相手の名を呼ぶ。
「やっぱり蛭田!」
満面の笑みを浮かべて、興奮気味に駆け寄ってくる。
「まだ生きてたか!」
「まあなんとかね」
「懐かしい。何年ぶりだ?」
目の前まで来て肩をばんばん叩いてくる。
「七年ぶりかな。確か、東海震災の直前くらいだから」
彼とは、柏木雅史とは、故郷の部隊が解散した後もしばらく行動をともにしていたこともあった。その後も何度か会う機会があり、近畿の戦場で一緒になったことがある。それが七年前だ。
最後に会ったのは二十代になったばかりだったから、そのころと比べると顔つきや体つきがだいぶ変わっている。
「お前は相変わらず見た目が全然変わらないな。すぐわかったぞ」
「そういう君は、少し痩せた?」
訊くと、ほんの少しだけ間が空いた。
「まあ、俺らも三十路前だからな。若い頃のようにはいかないだろ」
間があったものの、柏木はからりと笑い飛ばす。以前はそれなりに筋肉質だったはずだが、ずいぶんと細くなったように思える。なにより、顔から生気がだいぶ抜けている気がする。昔から精悍な顔つきをしていたが、だ今はだいぶ頬がそげている。ただ、目だけはぼくが知っている彼よりも、ずっと強い光が宿っている。
「元気そうだな」
「まあ、おかげさまで」
「まだ傭兵生活か?」
「ちょっと前に縁があって。今は正規に所属しているところがある」
「へえ。お前が腰を落ち着ける隊なんてのがあったんだな」
「まあ、まだ三年くらいしか経ってないけれど。君は?」
柏木の肩を見ながら聞く。彼が来ている制服と思しきものの肩には、長岡地区のエンブレムがマークされている。
「この辺りの地方兵団をやってるよ。そんなにでかい部隊じゃないがね」
彼のざっとした経歴は、送られてきた資料にあった。七年前、近畿での戦闘から長岡まで転戦して、今の長岡自治区の設立に一役買っていたそうだ。その時に併せて、長岡地方兵団を立ち上げたことは、知人を通じて耳に入ってもいる。彼の階級章は、中将のものになっていた。
「夢を一つ叶えた、ってことだね。今はその次の夢に?」
言うと、彼はもう一度顔いっぱいに笑みを浮かべて、さっきよりも遠慮なくばしばしとぼくの肩を叩いてきた。馬鹿力が骨に沁みる。率直に痛い。
「お前は本当に、そういうことをよく覚えてるよな。嬉しいぞ!」
さすがに痛いのと、若干鬱陶しくなってきたので、すいっと距離を取る。気がすんだのか、柏木も表情その他を戻す。
「ところで、お前どうしてここに?」
地元の兵隊としては決まり文句のようなものだろうけれどかすかに、問いかける目がちくりと刺さった気がした。
「仕事だよ」
「どんな?」
「それは言えない」
含みをもたせたり、変に取り繕うより、率直に返すのがいいように感じて、それを口にする。
柏木の頬がにいっと上がる。
「まあ、いいか。すぐにでていくわけじゃないんだろ? 今夜時間があったら、久しぶりに飯でも食わないか?」
「ああ、いいね」
断る理由もないし、近くにいた方が目的は達しやすい。一緒に居過ぎるのも後々問題なのかもしれないけれど、すでに充分一緒にいるからそこは考えても仕方がない。時間と場所の指定を受ける。
別れしな、彼の肩に吊るされたガリルに目が行く。ぼくが持っているのと同じものだ。確か、七年前に会った時にも彼はガリルを持ってそれが今も変わらない。
指定された時間まではだいぶあったので、適当に街をぶらつく。この街に来るのは初めてだから、知らない街をぶらぶらするのは悪くない。
五年かそこら前に柏木たちが制圧し、情勢が変わっているが、長岡地区はこの国の北限にあたり、加えて東と野境界があいまいだったこともあって「黄泉の国」と揶揄されていたような、あまりいい印象のない土地だった。だがもともと水や穀物が豊かな場所でもあり、自治体が変わってからは積極的に交易を広げていて、人や物の出入りが活発にあるようだ。街中には日本人以外の人種がちらほら散見される。大陸からのアジア人、それからロシア人も少数ながら出歩いているのが目に入る。
昔々、まだ大規模な放射能汚染に曝される以前は、この国にも海外から多くの人が訪れていたらしい。しかし、原発事故の後はほとんどの外国人が日本から去ってしまった。もちろん、江戸時代のように鎖国をしているわけではないから、来ようと思えば海外からも入れることは入れるのだが、放射能にまみれた島国に足を踏み入れる者はよっぽどの物好きに限られる。交易が盛ん、ということで、市場がにぎわっているのも新鮮だったが、日本人以外の人間が多いのは印象に残った。
「初陣で洩らすのは、普通のことだよね」
「はあ?」
柏木から指定されたのは、ちょっとした料亭の個室だった。カウンターやテーブル席はほぼいっぱいで、個室に入っても静かとは言えないが、かえって気を遣ったりすることもなく、ゆっくりできそうな雰囲気だ。彼はガリルはぶら下げていたが、軍服ではなく、シャツとスラックスだけのラフな格好で現れた。
「お前はいつも唐突に変なことを言う」
「たまたまだよ。最近、知人とそんな話になって」
「確かに教官の言ってたことは本当だったな。かくいう俺だって、そうだった」
「ああ、知ってるよ。柏木はおっきい方だったよね」
柏木が目を見開いて驚いた顔をする。
「ちょ、おい、なんで知ってんだよ!?」
「近くにいたからね」
初めて戦場に出た時、ぼくは柏木の隣にいた。
「……相変わらずお前は、変な奴だ」
目をしばたたく。変だと思っている奴に変だと言われるのは、心外だ。
「君に言われたくない」
「俺はまともだろ」
「それ本気で言ってるの?」
「当たり前だろう」
言い合っていると料理が出てきた。長岡は海に近いから、新鮮な魚介が並ぶ。山奥にいると生の魚を食べることはあまりない。久しぶりの刺身を堪能しながら、再会した旧友を見る。
既存のルールや筋の通らないことを極端に嫌がり、一方で物事の全体を素早く見抜いて、これと決めたらリスクを背負ってでも実行する。よく気に食わない大人相手に大掛かりないたずらを計画、実行するのは彼だった。いろいろな方面から目の敵にされることもあるが、義理に厚く、味方になる者も多い男だった。気の置けない友人たちと、誰にも文句の言われない自分の隊を作る、それが。彼のひとつの夢だった。
「でもよかったね。自分で隊を立ち上げるって、そうそうできるもんじゃない」
「運が良かっただけだ。それに自分の、といっても、自治区の一組織だからな。好き勝手にできるわけでもない」
「謙遜だな。その自治区だって君が立ち上げたんじゃないか。ところで、この街には外国人が目に付くね。中国系と、それからロシア系かな」
「ああ。海外への門戸は開いている」
「でも、わざわざ放射線まみれの国に何しに来てるわけ? めぼしい資源があるわけでもないし」
単純な疑問だった。資源もなく、工業もなく、治安も安定しているとは言い難い。極めつけには国土の大半が放射能に汚染されていて、観光に来る者もいない。この国に来る理由は見つからない。
「確かに、この国に来るのは特殊な連中だな。交易関連が大半だが、この街で多いのは放射線関連の研究者だ」
「なるほど」
変な話だが、長岡地区の一部は汚染防止区域の内側、つまりは閉鎖されているはずの『東側』に入り込んでいる。普通は長城に阻まれて入れないけれど、北陸の一部に壁はないから、山脈を越えればすぐに汚染区域に入ることができる。
ただ、汚染区域に入るのは非合法だ。ちょっと覗くくらいなら問題にもならないが、堂々と自由に出入りする、それも海外の人間も、となると、少し話は違ってくる。
「それって問題になったりしないの?」
「注意喚起を受けるし、睨まれていることは確かだな。ただ汚染区域の管理は実際できていないから、それ以上のことはしたくてもできないんじゃないか」
のどぐろの身をほぐしながら軽く言ってくれる。政府も具体的な手出しできないのだろう。長岡地区がそれなりに力を持っている、ということでもある。
「でも、ただ汚染区域の調査や研究だけに、わざわざ海外から何人も来るの?」
なめろうを詰まんでいた柏木の箸が一瞬止まる。こちらに目を合わせて、にんまりとした。
「汚染区域の調査は、交換条件だな」
「なにと?」
「原発だ」
「原発? 柏崎の?」
「再稼働させるための人材を集めている」
「……本気?」
「もちろん」
なるほど、と思う。彼が今回消去対象者にリストアップされた理由はこれか。
「大規模発電ができれば、状況は大きく変わる。それなりに補修や点検が必要になるし、燃料も必要にはなるが、それらが整えば稼働できないことはない」
お膳立てはできている、という口ぶりだ。
「発電所を動かせば、世界が変わる」
「……二つ目の夢、ってことか」
自分と志を同じくする人を集め、そして、新しい世界を創る。小さい頃からずっと、彼が言っていたことだ。一つ目はこの自治区を作ったこと。そして、二つ目は、その自治区を足掛かりにして自分たちの世界を広げる。それが彼の、ひいてはこの自治区の夢だ、と。
「どうだ?」
柏木の目線がぐっと近づいた。
「悪魔に魂を売る、みたいな話だね」
百年前、この国は原発事故が原因で国土の半分が汚染された。放射能まみれになったこの国は、国際社会から忌避され、資本の引き上げが起こり、輸出入がストップ。今の日本は海外から人も物資も入ってこない。その元凶となった原発をもう一度稼働させる、というのは、世間的にも決していい印象は持たれない。
しかし、もし大規模発電が可能になれば、社会が変わる。海外から輸入がストップして、エネルギー物資が入ってこないため大規模な発電ができず、この国は万年電気不足だ。発電所がないわけではないがもっぱら水力、風力と地熱によるもので、どれも小規模だ。もし、長岡地区にある原子力発電所を稼働することができるなら、世界は変わる。
「どう思う?」
「どう思うって、ぼくが間違っているって言っても、別にやめるつもりはないでしょ」
「まあそうだが。この話を聞いて、どんな印象を持ったかってことは気になる」
うーん、と考えてみる。国土を放射能で汚した過去から何も学んでいないとか、どんな手法を取ったとしても電力があれば生活が向上するかもしれないとか、そんなことが腹の中から湧き上がったりは全くしない。
「そういう判断や思想そのものには、興味がない、かな」
世界が変わったとする。変わった結果、どう生きていかなきゃならないかは考える。けれど、誰が何を考えて、世界がどう変わるか。ぼくには関心がない。誰が何をやろうとしているのか、いちいち考えていたらきりがない。
「その回答は、お前らしいな」
柏木が、どこか懐かしい、遠いところを見るにように言った。
「ところで、話は変わるがお前、『夢喰い』って知ってるか?」
「ゆめくい? 動物の獏のこと?」
「そっちじゃない。そう呼ばれている殺し屋がいるらしい。反政府ゲリラとか、国の意向に沿わない奴が狙われると」
「政府が傭兵でも雇っているんじゃないの。邪魔な人間を消すために」
「俺もそうだと思った。ところが、政府や国の人間も、その夢喰いに殺されることがあるらしい。どこの組織にも属さず、神出鬼没で、狙った獲物は必ず仕留める。証拠も残さず、どんな場所に隠れても逃げきれない、と言われている」
別におかしなことではない。誰かを疎ましく思う人間はどこにでもいる。ぼくも誰が柏木をリストアップしたのかは知らないし、依頼先がどこからかもわからない。政府の誰かなのかもしれないし、もしかしたら同じ自治区の人間でないとも言えない。ぼくの持っている端末には、とある人物の情報が送られてくるだけだ。彼を消したいと思う誰かがいて、誰かが手を下す。それだけだ。
「幽霊みたいに音もたてずに高速で近づいてきて、触れられただけで死んでしまうらしい。しかも、空も飛べるとか」
「それは殺し屋というか死神に近くない? いないよ、そんな人」
「まあ、もちろん噂だが。ただ、何かを変えようとしたり、動かそうとしている奴が狙われる。例えば、前に九州統一の動きがあっただろう。それを指揮していた奴が死んだのは、その殺し屋が原因らしい。他にも、移民政策を取ろうとした政府高官がやられた、とかな」
「志を持った人を狙うから、夢喰い? 偶然だよ」
「汚職に手を染めてるとか、既得権益にしがみついているような奴は対象外らしい」
そういうのは放っておいても大きな害にはならないだけだ。人が恐れているのは、これまでの世界が覆されてしまうこと。だから世界を変えようとする人間は脅威と見られる。原発の稼働を勝手にやろうとするのは、確かに脅威だ。発電するだけではなく、その先の核兵器転用まで想定されている、と映るのだろう。
「……志があるってことなら、君だって対象者なんじゃないか。こんなところでのんびりご飯食べてて大丈夫なの?」
「気にしていたら、何もできないからな」
行動をする人間はそんなものなのかもしれない。ただ、古くからの馴染みとは言え、久しぶりに会った人間とのこのこ出歩いたりするのは、あまりにも無防備すぎる気もする。ぼくが気づかないだけで、実はしっかりと警護体制が築かれているのか。それにしても、柏木本人からは、何かを警戒している気配がない。
「まあ、俺は大丈夫だ」
軽く言って、柏木はつまんでいたお猪口を口元に運ぶ。彼は料理には箸をつけるくらいで、テーブルに並んでいたものはほとんどぼくが食べている。
「お前、俺を殺しに来たんじゃないのか?」
ざあっ、ざあっと、規則的に鳴る波の音に乗って、柏木の言葉が届く。空を見上げる。半分になった月が白く輝いていて、辺りを照らしている。
店を出た後、彼が、海を見に行こうと言い出して、しばし歩いた浜辺に立っている。
「もしそうだったら、あまりに君は無防備すぎやしないか?」
思った疑問をそのまま口にする。
「お前に俺は殺せない」
柏木がそう言い切った。自信がある、というより、それが自然なことだ、というような口調だった。
柏木は古びたガリルを背中に担いだまま海を見ている。他に武器はなさそうで、何より彼からは警戒心とか殺気とか、物騒な空気がまるでない。実は見えないところに武器を持った人たちが潜んでいるのかもしれないし、遠くから狙われているのかもしれないけれど。ただなんとなく、根拠はないけれど、ここには僕ら二人しかいないと確信がある。
彼は、戦略に長けているし、戦場で生き残る力を持っている。しかし戦闘そのものにおいては、それほど優れているわけではなかった。たぶん、それは今も変わっていないはずだ。
「よく言い切れるね」
「試してみればいい」
肩をすくめて、柏木がこちらの真正面に向き直る。構えるでもなく、ただ立っている。
何か、罠でもあるのだろうか。警戒はしながら腰のナイフを抜いて、ただその後は、足先で思い切り地面を押す。距離を詰める。驚いた顔。刃を水平にしたナイフを胸部に滑り込ませる。
と、刃が硬質の何かに当たる。彼の身体が打突の衝撃で吹っ飛ぶ。だが、こちらにも差し込んだ腕から鈍い力が返ってきて、少し後退。すぐに体制を立て直す。
「手加減、とか、しないな……」
息を詰まらせながら起き上がる。今のは何だ。確実に心臓に刃を向かわせたはずだった。骨に当たったか。多分違う。硬いなにか。胸部に防具を仕込んでいるようには見えない。強化骨格だろうか。いや、それでも臓器を置き換えることはできない。
「これだ」
柏木がシャツのボタンを開ける。月の光に彼の胸部を浮かび上かびあがってはこない。透明なものが光を吸い込むように黒い海と同じ色に染まっていて、時折きらめきが映る。
「……晶化症、なのか?」
「そうか、蛭田は晶化症を知ってるのか」
原因は分からないが、身体がガラス化する病気だ。罹ると数年をかけて衰弱し、死に至る。人での発症率は確か一〇〇万人に一人くらい。牛や鹿では見たことがあるけれど、人が晶化症に罹ることはめったにないが、体表に出る時にはかなり進行しているそうだ。昔と比べてだいぶ痩せてしまったのは、これが原因だろう。
「俺の身体のほとんどはガラスになっちまってるらしい」
ガラス化した部分には、どんな衝撃を加えても傷一つ付くことはないと、聞いている。晶化症に罹ったら、晶化症以外が原因で死ぬことはなくなるらしい。毒を飲んでも、高い濃度の放射線を浴びても。
「護衛をつける必要はないってこと?」
「そういうことだ」
「でも、社会から消す、という意味合いなら、捕まえて、閉じ込めておく、という手もある」
「お前はやらないだろ」
シャツを治しながら、投げ遣りでもないが呑み込んだような口調で言う。
「俺にはまだやることがある。久しぶりに会って、飯を食って、お別れにしようじゃないか」
「悪いけど、そうもいかないんだ。こっちも仕事なんでね」
拳銃を彼に向ける。柏木が肩をすくめる。
「無駄だ。知ってるだろ、銃弾だろうがなんだろうが、どんなに衝撃を加えても……」
晶化症に罹ったら、晶化症以外は脅威委でなくなる。高い濃度の放射線を浴びても。ただ、例外がある。頭部に照準する。頭部がガラス化するのは、一番最後だ。彼は一瞬大きく目を見開いたが、他に動くこともなく、突っ立ったままだった。あまりに静かで、波の音がやけに大きく聞こえる。
「君は、ガリルが好きだな」
いつものように森を歩いていると、大高三尉の声にふと振り返る。敵どころか、人間に出会うことはない。出会うとしても、鹿とか、猪とか、狐とか、そんなものだ。
今日は八九式ではなく、ガリルを持ってきてしまった。使うことにはならないからどちらでもいいのだが。
「バッカスに見つかるとうるさいぞ」
占部三佐は仕事そのものにはうるさくいわないが、どうしてか服装や装備品に関しては細かい。警備隊の仕事のときは、原則支給されたもの以外を使ってはいけないことになっている。違反するとねちねちと説教される。
途中、身体の一部がガラス化した野良犬を見つけた。こちらに興味を示すこともなく、森の中に消える。
「晶化症って、なると痛いんですかね?」
唐突にそんなことが気になって、聞いてみる。彼は晶化症の専門家だ。
「いや。症状が進むと、いろいろな感覚がなくなっていくから、痛みも薄れていく」
「そうですか。それならよかった」
肩にかけたガリルのストラップが今日はどうにも馴染まない。