「黒い鬼」
第1幕「近き地より生づる火焔」
山の上から、広くて、遠い世界を見る。ここよりももっと遠くへ行きたいと言う僕を兄さんは笑ってばかりだった。「航天はまだ小さいから大きくなったらな」とか。僕は10歳だ、もう子供じゃない。
もやもやを抱えて村に帰ると、長老たちが難しい顔をして話し合っていた。幼馴染の白鈴がいなくなった。白鈴は遊ぶのが大好きで、しょっちゅういなくなる。けれど、今日はぴりぴりした空気が肌を触ってる。「人間」という言葉が聞こえた。兄さんが白鈴を探しに
行ったけど、一晩たっても戻って来なかった。
僕は怖くなって、朝早く帯王じいさんのところに行った。じいさんは狼だ。沢山歳をとっていて沢山知っている。太陽が真上にくるまで歩くと、強い陽射しの中に兄さんが倒れていた。
「施条銃だな、やはり人間が」
兄さんの身体にはたくさん穴が空いていた。背中がぞくぞくして寒くなってその後にお腹の奥から熱くてぐらぐらしたものが這い上がってきた。僕は人間のことを知らないけれど、嫌な奴だってことはわかった。白鈴は、怖い奴らに捕まってるんだ。
「来るか?」。
じいさんの言葉に僕はうなずいた。
第2幕「深き森より走る雷鳴」
「目を閉じて走れ」
じいさんが言った。
「そんなことしたら木にぶつかっちゃうよ!」
言い返すとじいさんはまた目を閉じろと言う。
「風の叫びを、草のささやきを聞け」
僕は目を閉じた。どしん、とすぐ木にぶつかった。
「できるわけないよ!」
「聞こうと思わなくても、お前には聞こえるはずだ。目を閉じろ」
歳を取り過ぎてじいさんはぼけちゃったんじゃないか。思いながら、目を閉じる。しゅっしゅっ、風の叫び。ふぃっ、と音が変わった。右に飛んだ。ざわざわと草の音が大きくなった。左に一歩ずらすと草の音が小さくなって、走りやすくなった。
「できるじゃないか」
じいさんの言葉に頬が熱くなった。僕は目を閉じたまま、山を三つ越えた。
崖から見下ろす景色を見た途端、熱が冷めた。切り倒された木々の悲鳴が残ってた。森は一直線に切り開かれていて、固くて長い棒が二本置いてあった。
「ここにも鉄道を……」
じいさんが呻く。二本の線は僕らの村の方に向かって伸びている。二本の線に添って進むと、火の匂いがした。どろりとした黒い水が焼けるような。森が大きく開けた。木と石でできたいくつもの大きな箱みたいものの回りに、僕らと似た姿をしたのがたくさんいた。でも、角がなかった。人間だ。
「白鈴は、奥だな。お前はここで待っていろ」。
じいさんがいなくなると背中が寒くなって、胸が押しつぶされそうになった。
小さく石を踏む音に、僕は気がつくのが遅れた。
「そこに誰かいるのか」
声に振り返ると二人の人間。初めて間近で見る。そいつらが僕と仲良くしたいわけではないことがすぐにわかった。
「角!お、鬼だ!殺せ!」
人間が細長くて黒い筒みたいなのを構えた。足元から頭のてっぺんに冷たいものが駆け抜けて、身体が凍った。ばんっ、と雷みたいな音がした。筒の先から何かの塊が飛び出して、
すんっ、と風より速く僕の頬をかすめた。施条銃。じいさんの言葉が甦る。
「うわあっ!」
頭の中が真っ白になって、僕は駆け出した。
第3幕「弱き村より吠える山塊」
そこらじゅうから鋼がぶつかる音が響いて、太陽みたいな光がいくつも爆ぜた。ぴゅん、と礫が空気を貫く。どこに行ったらいいかわらかなくて、駆け回った。箱の陰に隠れる。冷たい汗が噴き出して、膝が震えた。その時だ。僕の外から山の中を走ってきた感覚が届いた。吸い寄せられるように立ち上がり、すがるように走った。
白鈴と傷だらけのじいさん、そして黒い衣をまとい、鈍色の刃を携えた人間。暗くて、冷たくて、静かな目。けれど、懐かしいのはなんでだろう。そいつが僕を見た。
「気流が読めるようだな。お前も半鬼か」。
氷水を頭に直接注がれたみたいに僕は固まった。はんきって?
「航天!」
帯王が叫んだ。
「白鈴を連れて逃げろ!人間どもは山に火を放つつもりだ!」
「火を!?」
黒い人間が刃を構えた。
「航天、行け!」
白鈴の手を掴んで駆け出した。
「おじいちゃん!」
白鈴の声。逃げるしかない自分が、歯がゆかった。
村に戻ったのは、日が昇る前。長老たちに人間のことを話した。人間と戦うしかなった。けれど、この村で戦えるのは10人もいない。人間は50人以上いるというのに。「私たちも共に戦う」。村に来たのは、熊や猿、そして狼たちだった。「帯王じいさんの仇だ」。僕
は胸が痛くなった。けれど、悲しんでばかりじゃいられない。「僕が案内する」。みんなが戦に向けて大きな声で吠えた。山が揺れた。
準備は整った。でも、僕の心には重い石があった。「長老。僕は、半鬼なの?」長老の目が大きく開いた。僕には父さんも母さんもいない。僕が生まれてすぐに死んだって聞いた。「帰ってきたら、ゆっくり話そう」。長老の言葉にうなずいて、僕らは村を出た。
第4幕「黒き夜より駆ける閃光」
満月が真上にきた頃、僕らは人間の基地に攻め込んだ。僕らの方が人間たちより力は強い。けど細長い筒と、それよりももっと大きな筒からどんどん礫が飛んできて、火の玉が上がった。熊が盾になる。狼が後ろから飛び出して、人間を噛みちぎる。でも狼は別の人
間に撃たれてしまう。「気流を読め」じいさんの声が聞こえた。目を閉じる。僕を狙っている人間が後ろにいる。大地を蹴って、右腕で薙ぎ払った。布を切り裂くように人間の身体が真っ二つになった。感触に驚いた。僕は怒号や爆発音を避けながら仲間を狙っている人
間を、爪で、牙で引き裂いた。人間というのはこんなにも脆いのか。
立ち止まって肩で息をする。僕の体は人間の血で赤黒く染まっていた。背後に殺気を感じて飛び退く。あいつがいた。黒い人間。手に持った刃から血が滴り落ちている。
「じいさんは?」
「死んだ」。
ざわり、と背中の毛が逆立った。駆け出して左腕を振り下ろす。易々と交わされて、光の筋が飛んできた。速い。
「気流を読めるのはお前だけではない」
「お前も鬼なのか?どうして人間と一緒にいるんだ」
「私は鬼ではない。気流が読めるのは半鬼だけだ。お前と同じ」
「僕は鬼だ!」
「違うな。お前には人間の血が流れている。お前が殺した者たちと同じな」
「お前たちだって兄さんやじいさんを殺したじゃないか!」
「娘鬼を追ってきた奴か。あの鬼に、私は仲間を殺された。あの狼にも」
「お前たちが殺そうとするから!」。
対峙する。
「助太刀だ!」
二匹の狼があいつに飛びかかった。隙ができた。僕は、あいつの刃を蹴飛ばして、右腕を振り上げた。
第5幕「遠き空より流る血河」
立っている人間は、いなかった。
「俺たちの勝ちだ」
残った仲間たちが僕のまわりに集まってきた。
「航天、すごいぞ!親玉を倒した!」。
僕は足元に倒れているあいつを見下ろした。赤黒い川が流れている。ぐるりと辺りを見回すと、山ができていた。鬼と、熊と、猿と、それから人間で出来た山。騒ぎたてる仲間たちとは裏腹に、熱が引いて僕の心は氷みたいに凍えていくのはなんでだろう。
「兄さん、じいさん。仇は討ったよ」
黒い空に向かって呼び掛ける。でも僕の胸の雲は少しも晴れてくれない。
「お前も私と同じ」。
ただ黒い人間の言葉だけが濡れた霧のようにまとわりつく。
「僕はなにものなの?」
薄明るくなった空に僕はもう一度呼び掛けた。すぐ近くで放たれているはずの勝利の雄叫びが、僕にはずいぶん遠くから聞こえているみたいに思えた。