「境雪」 

 

 雪は世界を変えてしまう。誰から聞いたのかは覚えていないけれど、それを聞いてぞっとしたのは覚えている。

 世界というのはぼくらがいるほかにいくつもあって、雪は世界の境目を覆い隠して、ぼくがいる世界と他の世界とを混ぜこぜにしてしまう。空も、大地も、外の道も、目に見えるすべてがこれまでとは変わって、今までのものとは違う何かになってしまうのだ、と。

 

 教室の窓から雪が見える。ぼくは窓のそばに歩み寄って、灰色の世界にたくさんの白い小さな塊が降り落ちるのをただ眺めている。教室にはぼく一人。他には誰もいない。窓から見える外にも、教室を出た廊下にも。今見える世界は変わる前の世界なのか、それとも変わってしまった後の世界なのだろうか。

 窓の外をぬぼっとした大きな黒っぽい影が横切った。そいつは尻尾というか、尾びれを揺らして、窓の外を行ったり来たりしている。くじらだ。ぼくが十人くらいいても足りないくらいの、灰色と青色の絵の具を混ぜたような色の大きなくじら。

 ひとしきり中空を泳ぎ回った後、くじらが窓をくぐって、教室に入ってきた。机と天井の間にあるスペースを目いっぱい使って、教室の中をぐるぐると動き回る。教室にも、校内のほかの場所にも誰もいないけれど、このくじらは時折やってきて、こうやって教室に入ってくる。

 うっとうしいな。ぼくは椅子から立ち上がって、机にひっかけてある鞄を手に取る。帰ろう、ここにいてやることがあるわけでもないのだ。

 黒板の前を横切って、教室の扉を開ける。静かな廊下。他の教室の前を通っても、音一つ聞こえてこない。

 くじらが教室から出てきた。ぼくを抜かして走っていくみたいに、廊下の前の方をずっと泳いで、廊下の真ん中にある階段を下へ行った。この校舎はL字型になっていて、くじらが降りていったのは、L字の付け根にある階段。一緒に降りていくのはなんだか癪だったので、ぼくは静けさだけある廊下を突き当たりまで進み、横線の先っちょにある階段を下る。昇降口に行きつく。いくつもの靴箱がならんでいるけれど、全部空っぽだ。ぼくのものを除いて。

 上履きを入れて靴を取り出し、昇降口の段差に腰を下して、靴を履く。玄関の扉を開けて外に出る。外は灰色に染まっていて、雪が降っている以外は何も見えない。遠くに黒っぽい点が見えた。さっきのくじらだろう。けれど、それもどんどん小さくなって消える。さっきまで近くでうろうろしていたのに、外に出たら置いてけぼりだ。

 雪が積もる。髪、肩、つま先。手袋、カバン、コート。暗い灰色にぼくが少しずつ埋もれていく。冷たさに体の感覚がなくなる。

 ぼくはどこに行こうとしていたんだっけ。そうだ、帰ろうとしていたんだ。でもどこにどうやって、帰るのだろう。頭がぼーっとしてきて風の音も、雪が積もる音も、だんだん聞こえなくなる。体から力が抜けて、外の灰色すらも見えなくなって、目の前が暗闇に落ちていく。

 

 夢を見る。降る雪の様子が変わる夢。少し桃色がかった、ひらひらしたかけらになる夢。色が消えて、重たくて湿った水玉になる夢。黄色や赤色の、無数のからからしたかけらになる夢。夢の中では、空気や空の感覚も変わる。硬くなったものがほどけて、まどろむような暖かい風。突き抜けるような青い空と、どこまでも登っていく白い雲。ひやりと透き通る空と、どこか寂しげな空気。

 冷たい空気にはっとする。ぴんとして、張り詰めたみたいになっている。気が付いたら、またぼくは教室の窓際の席に座っている。どうやってここに来たのかは覚えていないし、いつからいるのかもわからない。きっと雪が、ぼくがいた世界とどこか別の世界をつないでまぜこぜにしてしまったんだ。ただ、ここには誰もこない。それは悪いことではない。ぼくはずっと一人になりたかったから。ずっと前からぼくはぼく以外の誰も彼もがうっとうしくてたまらなかった。でも今は、いつまで一人でいればいいんだろう、とも思う。

 

 またくじらが来た。前までは、来てもただ教室の中を泳ぎ回るだけだった。それなのに、このくじらは泳ぎながらずっとぼくを見ている。いや、もしかしたら気が付かなかっただけで、くじらはいつもぼくを見ていたのかもしれない。見られていると、居心地が悪くて、ぼくは席に突っ伏してじっとしていた。それでもくじらはいつまでたっても出ていく気配はない。さすがに無視しきれなくなって顔を上げるとくじらと目が合った。目を合わせるのは初めてだ。大きな口の端っこの上にある目は、しっかりぼくを見ている。

 くじらが、ふいっと教室の前の扉へ向かう。教室から出て、でもそのままどこへ行くでもなく、廊下側の窓のそばにとどまっている。立ち上がって、廊下に出る。くじらはぼくが出てゆくと、少しだけ前に進んだ。ぼくが追い付くと、また少し前に出る。くじらとぼくは一緒に歩く。目を合わせるのも、一緒に歩くのも初めてなのに、以前もこんなことがあったような気がする。遠い昔のような、ついこの間のような。

 中央の階段を降りて、一階の廊下に着く。昇降口の外からざざあっ、と音が聞こえた気がした。どくん、と心臓が重くなる。靴を履いて、灰色一色の外に出る。ぼくを溶かすように灰色の雪が積もってくるけど、構わずに辺りを見回した。またさっきの音だ。寄せて、引いて。耳を済ますと他の音も聞こえる。うっとうしい、でもするりと耳の奥に入ってくる。

 音のする方向に踏み出す。他の音も聞こえてくる。ざわざわしたたくさんの少し高い声。なにかがこすれるがさがさした音。ひゅるる、と上の方から降ってくる何かの鳴き声。遠くから聞こえるぶるるん、と腹に響く音。話し声。

 聞いていると、頭の中に景色が浮かんでくる。玄関口の先にある校庭。右手には赤屋根の体育館。校庭の先にはプールとか、鉄棒とか、大きな木とか。体育館の前の桜並木は校門へ続いている。校門を出ると、左側にはお寺があって、建物の合間からは海が見える。防砂林、畑、家々。ぼくはいつもそれとは逆の右の道を突っ切っていく。住宅街の坂道を下って、その先にある大通り。遠くには雪で白くなった山。路傍の石ころ、アリの行列、いっつも吠えてくる犬。それから。

 景色が浮かんで、消える。頭の中が灰色になって、音もだんだん遠くなる。ぼくはこの先に何かあるのかを知っている。でも、そこに行くことはできないんだ。

 キュイ、という音にはっとする。くじらが外をふさぐように前にいて、ぼくを見ていた。くじらは方向を変えて、廊下まで戻ると、またぼくを待っているようにこちらを見る。いぶかしげに思いつつ、積もった雪を払って校舎の中に戻る。くじらは廊下をするっと泳いで、下ってきた階段を上にいく。上の階でまた止まり、こちらを待っている。こんなことは初めてだ。くじらはいつもならぼくが教室を出ると勝手に下に降りて、勝手に玄関から外に出ていってしまうのに。少し戸惑うけれど、待たせるのも気が引けてぼくはそれに付いていく。

 二階をさらに上がって、三階へ。廊下を奥まで進んで、もう一つ上の階層に上がる階段。これを上がると、屋上に出る扉がある。でも、その扉は閉まっていて、屋上に出ることはできないはずだった。でも、そんなことは気にしていないみたいにくじらは階段の上をすべるように上がっていく。ぼくも階段を上る。

 屋上の前の扉に、くじらはいなかった。ドアノブを回して押すと、すき間から暖かい風が通り抜けて、扉がばたんと押し戻される。

 開いたことに驚く。もう一度ドアノブに手をかけて、思い切り体重をかけて扉を開く。屋上に出ると、眩しさに目をふさいだ。少しずつ目を開く。視界に入る灰色が白に近くなってる。見上げると、いつもの濃い灰色から白い光の帯がはしごみたいに幾筋も降りている。下りてくる雪はいつか夢で見たような薄い桃色になって、ひらひらと舞降る。風が暖かい。

 くじらは屋上の真ん中でぼくを見ていた。くじらの脇に、光のはしごが降りている。登ってみろと言っているように思えて、はしごに足をかける。左足。左手。右手。右足。驚くほどに軽く登っていける。桃色のかけらが降りかかってくるけれど、登っていくとかけらは積もることなく散っていく。下を見る。L字の校舎に乗っかった屋上、校庭に描かれた白のトラック、桃色の桜並木。くじら。

 海が見えた。学校のすぐ近く。砂浜、松林。お寺、神社、畑、家、山の方に見える高速道路。

 はしごを登っていくと、桃色の雪が消えた。下を見ると、豆粒くらいになったくじらが、ぼくをずっと見ている。ぼくもくじらを見る。登りきったら、たぶん、二度とここには戻っては来られない。でも、ぼくは登っていく。空の灰色が白に近くなる。登るごとに体重がなくなっていく。

 

 また雪が降りだした。はしごを下している銀色の雲から銀色の雪が下りてくる。すぐそこにある雲に照らされて、ぼくも銀色になっている。

 眼下にあった大地はもう見えない。でもくじらは今もぼくを見ているのはわかる。