「本当の私」

 

 今の私は本当の私ではない。40も半ばを過ぎたというのに、未だにそんなことを考えてしまう。歯車が狂ったのは、急死した父が経営していた町工場を引き継いだときからだ。バブルが崩壊した後は、万年自転車操業で、余裕があるなどとは口が裂けても言えない。町工場の経営状態は、そのまま我が家の経済状態だ。いつも文句ばかりの従業員の態度は、家庭での家族と同じ。こんなはずではなかった。そんな考えが頭に浮かんだ後は、最近こう思うようにしている。

 

「これは本当の私ではない。誰かの代わりに仕方なくここにいるのだ」

 北見という男がやってきたのは一年前。黒い雲に覆われた、梅雨の真っ盛りだった。猫の手でも借りたかった私は、年齢と名前以外口にしないが安い給料でかまわないと言う北見を雇うことにした。北見は、やけに早く仕事に馴染んだ。あまり社交的な方ではないが、周りの連中は北見に対して昔からいるかのように接した。違和感はなかった。私はすぐ北見という男に惹きつけられた。半年を過ぎた辺りから仕事で困ったことがあると、北見に相談するようになった。抱えきれない仕事の処理や、客からの無理な要求などを、10近く歳下の北

見に漏らしてしまう自分に始めは戸惑いもしたが、納期の配分や顧客との折衝法など、北見の意向に沿って仕事を進めると、大抵のことは丸く収まった。

 

 季節がひとまわりして、また梅雨がやってきた。私は、異世界からやって来たような、じめっとしたこの時期の空気感が嫌いだった。椅子に座ったまま、タバコに火をつけた。このところは、北見に経営に関わる部分まで任せるようになってきた。一年前と比べ、私の周りはだいぶ変わった。町工場の経営は、ほんの少しではあるが余裕が出るようになり、いつも澱むようだった社内の雰囲気もだいぶ良くなった。火の車であろうとずっと走り続けてきたからか、少しばかり心に穴が空いた感覚はあるものの、北見が仕事をしてくれるおかげでだいぶ私の負担は減った。すべては北見が来てから変わったことだ。考えてみれば、不思議な男だ。元々は大きな工業会社の工場で働いていたらしいが、あれほど優秀な男がどうしてそんなところを離れて、こんな小さな町工場にやってきたのだろう。生活の様子から独身のようだが、あんなに気の利く男が独りでいるのも、奇妙な話だ。仕事が減って余裕が出てきたからだろうか。北見という男は何者なのだろう。そんな疑問が湧いた。

 

「どうしたんです? 難しそうな顔して」

 外回りから北見が帰ってきた。私は先ほど沸いた疑問を投げ掛けた。

「お前に任せてから、景気がいいよ。うちに来る前は会社員だと言っていたが、経営のことにも携わっていたのか?」

「いえ、本で読んだことをそのままやっているだけです」

「こんなに仕事ができるなら、女子社員は放っておかなかっただろう」

「男所帯でしたからね」

「会社以外にも女はいるだろう。ずっと独り身なのか」

 聞くと、北見は遠くを見るように天井を見上げた。

「いえ。前は、飯を作って待っててくれる人がいました」

 北見は妻と子供がいたこと、二年前に、二人を事故で亡くしたことをゆっくりと語った。

「もう、昔のことですよ」

 遠い目をしたまま笑う北見に、なぜか私はこんなことを言った。

「今日、うちに来ないか」

「やだな、迷惑になりますよ」

「そんなことはない、たまには家内や娘以外の顔を見ながら家で飯を食いたいところだった」

 自分でもわかるようなわからないようなことを言いながら、携帯電話を手に取った。

「じゃあ、お言葉に甘えて。奥さんと娘さんにも、会ってみたかったところですし」

 北見の返事を背中に聞きながら、私は携帯電話から妻の番号を呼び出した。渋るかと思ったが、妻はすぐ私の提案に賛同した。結婚後は聞いたことのない、妙に明るい声だった。

 

 始めまして、と言う割に妻の態度によそよそしさは全くなかった。私以外の男がいるからだろうか、身なりも小奇麗な印象も受ける。いつもは和食ばかりのテーブルには、凝ったイタリア料理がたくさん並んでいた。私はふと、どうして北見を呼んだのだろう、と思った。妻と北見は、いつの間にか名前で呼び合っていた。

「お前、いつの間に北見の名前を知ったんだ?」

「やあねえ、あなたが教えてくれたんでしょう」

 北見の空いたグラスに、妻がビールの瓶を傾けた。私はこの時始めて、北見という男に違和感を覚えた。考えてみれば、私とは10近く年下の妻は北見と歳が近い。並んでいれば、私よりも北見の方が夫婦の絵としてしっくりくるだろう。我に返って、何をバカな、と思う。北見は人の妻を寝とるような男ではない。それに妻と北見の間に流れるのは親しいものではあるが、男女のそれとは違う気がする。疑いを打ち消けそうとするが、娘が帰ってきてから、違和感は小さくなるどころかますます大きくなった。

「来週、試合なんだっけ?」

「そう。練習きつくて、もうへとへと」

 私は、来週、娘が部活の試合だなんてことを北見に話しただろうか。そんな考えと一緒にグラスの中のビールを飲み干した。いつまでたっても私の脇にあるグラスが満たされることはなく、私はただ北見と妻と娘が話をするのを黙って聞いていた。

 

 北見を家に連れて行った日から、妙なことが起こるようになった。家に帰ると、これまで見たことのない小奇麗な絵が飾ってあったりする。料理はなぜかイタリアンが多くなった。指摘すると「何言ってるの、あなた前から好きだったでしょう」と笑ってかわされる。娘が、私と目を合わさなくなったのはなぜだ。

 おかしなことは会社でも起きた。

「北見社長は居ますか?」

 始めは悪い冗談なのかと思ったが、たまにそんな電話がかかってくる。北見が会社を乗っ取ろうとしているのか、いや、こんな小さな町工場にどんな価値がある。そう思いこもうとするが、私の胸は疑念でうずき続ける。事務所に客が訪ねてきても、私の顔すら見ない連中が増えた。声をかけると、思い出したように「ああ、中織さん。元気ですか」そんな言葉とどこかよそよそしい目線が返ってくる。それどころか、私の名前がすぐに出てこない者まで出る。どうしたというのだろう。もう二十年以上も一緒に仕事をしてきて、毎日冗談交じりに話をしていたというのに、まるで知り合ってから間もない人間に対するような。何よりどうして私は、入って一年しか経っていない得体の知れない男に、重大な仕事を引き継いだのか。やけに暑い日、私はそんなことに気がついた。

 クーラーの効きすぎた部屋が少し寒くなって、私は上着を取りに更衣室に入った。自分のロッカーを開けたはずだが、中には北見の私物や上着が入っていた。ロッカーを間違えたか、季節の変わり目で少し体調を崩したのだろうか。そう思って扉を閉めようとしたそのとき、裏返った一枚の写真が目にとまった。吸い寄せられるように写真を手に取る。表を返して、私は背筋が凍りついた。そこにはエッフェル塔を背景に、北見と私の妻と娘が写っていた。どういうことだ。妻も娘もパスポートを持っていない。フランスになど行ったことはないはずだ。急に重くなった頭を抱えながら廊下を出る。壁に飾ってある事業の登録証を見ると、北見の名前が記入されていた。近くにいた社員を捕まえて北見のことを訪ねると、

「社長なら、今日は帰りましたけど」

 と不審げに言った。私はその社員に怒鳴りつけた。

「バカ野郎、社長は私だ!」

 会社を飛び出して、私は私の家であるはずの場所へ向かった。

 

 家の扉を開けると、そこは私が見慣れている場所ではなかった。玄関には所帯じみたビニールのサンダルなどなく、磨かれた革の靴が並んでいる。薄汚れていた白い壁紙は木目調に変わり、大きな森の絵が飾ってあった。靴を蹴飛ばすように脱いで、居間に向かう。扉を引く抜くように開けると、ニンニクの匂いに胸が悪くなった。

「やあ、中織さん。どうしたんですか」

 北見はソファに深く腰掛け、コーヒーカップを片手に新聞を読んでいた。

「北見、ここで何をしている?」

「新聞を読んでいるんですよ」

「ふざけるな!」

 私は北見の胸倉を掴み上げた。

「何を怒っているんです? 私が家で新聞を読んでいるのは可笑しいですか?」

「ここは私の家だ、出ていけ!」

 妻が騒ぎを聞きつけたのか、見たこともないエプロンを着けたまま居間にやってきた。妻であるはずのその女は、私を見て悲鳴を上げた。

「あなた、誰ですか?」

 初めて会う人間でも見るような目線とともに突き付けられたその言葉に、私は思わず北見を掴んだ手を緩めた。

「何を言って…」

 歩み寄ろうとすると、がしゃんとテーブルに私の足が当たる。目をやると、普段は殺風景なはずのテーブルに花が乗っている。その脇には、北見と、妻と娘が笑いながら寄り添っている写真。私の足元から、寒気が体を登っていった。私は震える歯を抑える付けるように唇に力を込めた。

「心配しないで。会社の人だよ」

 北見が微笑みかけると、女は懐疑に満ちた目を私に向けながら、しぶしぶと居間を出た。

「私のものを奪ってどうするつもりだ?」

 問い掛けると、北見は笑いながら服の胸元を整えた。

「奪う? それはあなたの勘違いだ」

「どういう意味だ?」

「これらはもともと私のものです。あなたのものじゃない」

 その言葉に私は背中から冷や汗が流れ出るのを感じた。

「どういう意味だ……。いや、お前は誰なんだ?」

「私は、本当のあなたです」

 北見は私に向かってにっこりと笑うと、壁に歩み寄り、立て掛けたあったゴルフクラブを手に取った。

「大変だったでしょう。でももう十分です」

 北見は私の前に立つと、ゴルフクラブを振りかぶった。妻が一昨年の誕生日に買ってく

れたものだった。

「今まで代わりに生きて頂いて、ありがとうございました」

 向かってくるゴルフクラブがやけにゆっくりと見えた。