「亜鬼」

          

 静と申す白拍子にて候。

 女が、青い声で言い捨てた。立ち上がると、紺碧の凍てつく炎が広がって、寒気を覚えた。わずかに既視感があるが、郷愁に浸れる状況ではなさそうだ。

 女が息を吸い込んで、止める。炎のゆらめきが止まる。嵐の前の静けさという言い回しが妙に馴染む。音もなく、温度もなく。佇まいと同様、見ている分には静かだ。しかし触れたら切れそうな鋭さと、こちらを呑み込まんばかりの威圧感をびりびりと感じる。私は、後ずさりしたくなるのを、深く息を吐いてねじ伏せた。

 

 よしのがわ

 

 青が爆ぜた。言葉に続いて、銅拍子。

 しゃん、という音鳴りと、よく通る声。膨れあがった瑠璃色が槍となって一直線にこちらへ飛びかってくる。

(ひるむな)

 腹に力を込め、背筋を伸ばす。剣の柄を持つように、右の手を握りしめる。

 

 みねのしらゆき、ふみわけて

 

 扇を上げる軌跡に沿って、紺瑠璃の大蛇が駆け上がってくる。

 

 いりにしひとの

 

 女がゆっくりと回る。紺色の竜が、値踏みするように、私の周りをぐるりと回る。

 

 あとぞこいしき

 

 女の動きが止まる。眼前に迫った竜が動きを止めて紺碧になる。

 奥歯で胸中の苦虫を噛み殺す。目の前の女は私を見ているわけではない。だがもし目を逸らしたら、その瞬間に炎は私を呑み込むだろう。

 

 女の姿勢がすっと伸びる。迫っていた炎が退く。大波の前、水が退いて海の底が見える光景が浮かぶ。

 

 しづやしづ

 

 扇を開く。地鳴り。微かに耳に届くものから、大地を揺らすほどに。舞台の上で紺青の獣が咆哮する。

 

 しづのをだまき、くりかえし

 

 女が両の腕を広げる。炎の獣がうずくまり、大地に身を沈める。

 

 むかしをいまに

 

 扇が口元に置かれる。半身を引いて右袖を振り上げると、鉄紺の烈火が大地を蹴って階段を駆け上る。

 

 なすよしもがな

 

 女が、右腕を高々と掲げた。双眸が初めてこちらに向けられる。

 世界が漆黒に染まる。皮が溶け、肉が焼け、脂が焦げるにおいがする。青黒い炎は欠片さえも焼き付くさんばかりに吹き荒れる。舞台も、本宮も、この八幡宮のすべてが闇のような青に呑み込まれる。

 

 都を追われた九郎は吉野山からどこかへ逃れたそうだ。山の彼方へ消えてしまった貴方様が愛おしい。そうさせたお前が憎くてたまらない。その思いはわからないでもない。ただ私は、源頼朝として、それに共感することはできない。

 

「けしからんな」

 傍らの太刀を手に取り、立ち上がる。がしゃん、と紫色の金属音が空気を割った。景時が打っていた銅拍子を落としたようだ。慌てて腰の小太刀を掴もうとするのを、目で制す。

 炎が駆け上った階段を、一段一段踏み抜くように下り、女と同じ舞台に立つ。

「この鎌倉の御前で京を謡うのは、あまりにも場違いというものだ」

刃を抜き放ち、首筋に当てる。

(こんなところで、憎き者の目の前で、舞を舞うのはどんな気分だ)

 心の中で問うても、答えはない。静かな青い目は、光の届かない水底のように奥が見えない。しかし、刃を当てた真白の肌から凍えるような冷気が右手から腕、そして肩まで、伝わってくる。

 

 静よ、静よ、と、幾度も私の名を呼んでくださった昔に戻りたい。

 京を、そして九郎を憂う、というだけではないのだろう。伊勢物語。粗末な布と苧環。しづという響きと、糸を繰るもの。妾とはいえ、弟の妻であるはずの者を一介の下人として貶めたのと同じように、お前も都を追われた流人に戻ってしまえばいい。それとも、いずれはお前も誰かの手でその地位を堕とされる時がくる、そんな呪詛なのかもしれない。

 平治の乱に敗れた父は都を追われ、死んだ。その時私は伊豆に流され、囚われの身となった。だがそれがどうした。過去には戻れない。先のことなど分かりはしない。今私は、鎌倉としてここに立っている。私に脅しをかけるなら、無礼者としてだけでなく、一人の敵としてこの斬る。それだけだ。

 右腕が凍るまで待つつもりはない。刃を持ち上げ、天に掲げる。振り下ろせば青い炎も消える。

 

「お待ちください」

 刃が届く直前、声に乗って濃緑の風が眼前に躍り出た。肩越しに振り返る。政子が深緑の風と共に立ち上る。私が踏み抜いた階段を、深碧が覆うように下ってくる。眼前まで来ると、弓での青漆の矢を引き絞るようにこちらを睨め上げる。

「周りをご覧なさい」

 有無を言わさぬ眼気に、しぶしぶ辺りを一巡する。

 空気が乱れている。先ほど銅拍子を落とした景時が目に留まった。紫の火をたぎらせながら「不都合があれば斬り捨てる」と息巻いていた景時からは、赤と青の光が秩序なくこぼれている。普段は鉄面皮で何を考えているのかよくわからないあの男があたふたするのはよほどのことだ。

 政子に目を戻す。炎の獣がまた私の目の前に在している。

「この者は逆賊を讃える謡を詠みました。でもその非礼な舞に、世界そのものが魅入ってしまった」

「それがどうした?」

「それほどまでこの者の舞はあっぱれでした。それに、敵の渦中にありながら想い人を恋い慕い続けるのが女というもの。私も同じ女です。この者を斬るというのならまず私をお斬りなさい」

 炎の壁が女と私の間を割って入る。熱量に、一歩足が下がる。

 先ほどまで見ていた静と政子が重なる。世評など関係ない。自らの想いを貫き通す。深碧の獣がそう言っている。

 もう一度、胸中で苦虫を噛み殺して、太刀を鞘に納める。

「……見事であった。この白拍子に、かずけものを与えよ」

 それだけ言い捨てて、二つの双眸に背を向ける。

 速やかにこの場を立ち去ろう。衝動的にそう思う。だがどうしたことか、本宮への階段はやけに長く、歩を進める引きずるほどに足が重い。

 

 居室についた途端に、腰が砕けた。足が震えて、力が入らない。たかだか舞を見せられただけでこんな醜態をさらすとは。

 立場としては明らかにこちらに分があった。それなのにこの様はどうしたことだ。わけがわかない笑いが腹の奥からせり上がってくる。いつ殺されてもおかしくないあの状況で、ぴくりとも表情を変えないなど、あの女は尋常ではない。

「たくさん話を聞けたのではないですか?」

 政子が、不遜な表情で床に崩れ落ちた私を見降ろしていた。静を捕らえた、との報が入った時、話を聞くより舞を見た方が早い、と言い出したのは政子だ。確かに話を聞きたくはあったが、内容はいささか私の想定とは異なる。

「なぜ止めた?」

「言ったでしょう。あの場の行いとしては罪であっても、想い人と引き離され、帰ってくるのかも分からないまま、それでも待つという覚悟は、罪になるどころかむしろ褒めたたえるべきものです」

「お前も静の立場なら同じようにするとでも言いた気だな」

「私が静なら、あなたを殺してます」

 多少恨みのこもった視線を投げられる。鎌倉に入る前、ずっと私が戦場にいたとき、政子もまた自分の想いを堅持していたのだろうか。それに、白拍子と豪族の娘。源氏とは出自が違う。一族に背いてまで私のところに来るというのはよほどの意思があったのだろうが、貴族に嫁いだ後の心中は静と重なる部分があるのかもしれない。

「怖いな、女というのは」

 いい加減、無様に崩れ落ちているのも止めにしたい。しかしまだ足が不気味に笑い続けている。

「あれほどの威圧感は戦場でも感じたことがない」

 そう洩らすと、政子が隣に腰を下ろした。

「……なにを見たのです?」

「炎を見た。触れたものを何もかも焼き切る鋭さと熱を持った大きな炎だ」

 鋭い炎、というものであれば、景時も似たようなものを持っている。しかし、その熱量と容量は比べ物にならないほどに激しく大きい。

「あんな炎を見たのは、これで二度目だ」

「一度目は?」

「九郎義経、わが弟と会ったときだ。九郎の炎は真紅のような赤だったが、静の炎は氷のような青だった」

「色は違えど同じ炎をまとった者同士、惹かれ合ったのでしょうね」

「それほどの仲を引き裂いた私は、やつらにとっては鬼か何かなのだろうな」

 震える足を抑えながら、どうにか立ち上がる。戸を開けて、外を見る。目に緑が入ってくる。燃えるように赤くなった山の麓、白い雲、わずかに銀色の風。このところ空気が尖ってきた。

 このまま静を鎌倉に置いておいても、得るものは何もないだろう。

「静を京へ帰せ。ただし、子は殺せ。男であっても、女であっても」

 政子が目を見開いて、私を見上げる。

「あの女は鎌倉に刃を向けた。ただで帰すわけにはいかん」

「しかし、あまりにも……」

 理不尽だ、と。

「あの舞に免じてやれませんか」

 この国きっての舞手。その舞は天候をも変える。そう聞いていた。人であるならば、さぞ見ものであっただろう。

徐々に日が落ちて、紺色に染まりゆく空を見る。あの女が発していた凍えるように暗い青。

「私が人であれば、そうしたかもしれんな」

「鎌倉殿も、人の子でしょう」

「私には、憎しみが燃え盛っているようにしか見えなんだ。もはや、源頼朝は人ではない」

「鎌倉のために、鬼になると? それでも、目の前でわが子を屠られる苦しみを、他の者へも味わわせるのですか。殿下はそれがどれほどのものか、知っておられるはず」

 まだ政子が私に嫁ぐ前、私はわが子の命を目の前で奪われた。思い出すだけであの時の、内臓をすべて燃やされるような痛みをまた感じる。だがそれがどうした。

 鎌倉のため、というだけではない。想い人を恋い慕い続けるのが静や政子の意思ならば、武士のための世界を創ることが私の意思だ。あと数年、いや数十年、数百年の先、血筋や家柄ではなく、真に力のある者がこの国を統べる時が来る。私はその時代の礎だ。

「個人の想いなどどうでもよい。男であろうと女であろうと、敵の子は敵。立ちふさがる者は退けなければならない。それだけだ」

「その割に、ずいぶんとお辛そうな顔をされてらしゃる」

 意思を貫く、か。自分で言っていて笑ってしまう。もしもまたあの炎が、私の目の前に現れたら。考えて、それだけで背筋に冷たいものが走る。本当は、九郎の子が私の前に立ちふさがる時がくるのが怖いのだ。だから、ならば今、胸をつぶされるあの時の想いが甦ろうとも、九郎の子を討つ。それだけなのかもしれない。

「小心者なのだ、私は」

 自嘲気味に吐き捨てると、政子がふっと笑みを浮かべた。

「知っていますよ、そんなことは」

 

 数か月の後、静が子を産んだ。九郎の子を。

 男か、女か、どちらかは聞いていない。密かに生き延びている、などという話も時折耳にする。私の選択は正しかったのか。そんなことが頭をよぎることもある。

恐らく、私があの舞を見ることはもうないだろう。あの炎を見ることも。

 舞を舞っていた静は、私への憎しみなどなく、ただ九郎とまた逢いたい一心だけで謡を詠んだのかもしれない。いや、そもそも彼らが見せた炎は、私の劣弱な心が見たただの幻だったのではないだろうか。

 

 このところ、よく夢を見る。嵐のように吹き荒ぶ赤と青の炎に取り囲まれる夢。弧を描く炎は徐々に径を狭めて、私を呑み込む。不思議と熱さは感じない。痛みも恐怖もない。ただそれを見ている私は、舞うように弧を描く炎を、鳥肌がたつほど美しいと思うのだ。